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歴史と東京に関するyuzuk45のブックマーク (8)

  • 徳川家康の最大の功績は「関東平野の魔改造」だと思ってる→「川の位置変えちゃうのすごい」「今の東京発展の基礎を作った」

    リンク Wikipedia 利根川東遷事業 利根川東遷事業(とねがわとうせんじぎょう)は、江戸時代初期に始められた利根川中下流の付け替えにかかわる河川改修を指す。 利根川の大規模な河川改修の歴史は、天正18年(1590年)の徳川家康江戸入府後、徳川氏によって始められ現代に至るとされるが時代によって多種の意図の変遷があった。 改修の目的は、水上交通網の整備などの利水面が先んじてあり、その中心は赤堀川の開削である。元和7年(1621年)の新川通開削に続く赤堀川の開削着手から、承応3年(1654年)の赤堀川通水まで一連の工事が行われ、これにより利根川から 24 users 207

    徳川家康の最大の功績は「関東平野の魔改造」だと思ってる→「川の位置変えちゃうのすごい」「今の東京発展の基礎を作った」
  • 平将門と東京の霊的結界史|パブロフのベル

    **ザックリ千年くらい前の事、平安時代の中期、関東武士の平将門は、京都の朝廷(天皇)の圧政に反旗を翻し、関東に独立国家を築こうと戦を仕掛け、京都まで攻め入った。世に言う「平将門の乱」である。** **将門は戦術に長けていたが、戦場でも武士としての礼節を重んずる武将であったが、朝廷側にその隙を突かれ、志半ばで弓矢に倒れてしまう。反逆者として首を切られ、京都でさらし首にされた将門の首は、腐る事もなく、胴と離されているのに三ヶ月も呻き続け、その首は自らの意思で江戸に飛んで行き、今の東京の大手町一丁目に落ちたという。そこに誰かが、首だけになって江戸に帰ってきた将門を弔って、小さな首塚を作った。首塚の隣にあった神田明神に祀り、将門信仰が始まった。 その後、将門の兜が戻り、江戸の地に兜神社が建ち、次は鎧神社だなんだと、半ば史実があやふやになるが、築土神社、水稲荷神社、鳥越神社などが建ち、神田明神と首塚

    平将門と東京の霊的結界史|パブロフのベル
  • 関東大震災映像デジタルアーカイブ

    『内務省検閲時報』によれば、1925年中に検閲を受けた作と思われるフィルムは、以下の6件である。 ・1925年8月21日/1344番/日、實、風/震災前の帝都の壯觀/1巻/297メートル/(製作者)東亞キネマ株式會社/(申請者)八千代生命保険株式會社/新 ・1925年8月21日/1345番/日、實、風/震災前の帝都の壯觀/1巻/297メートル/(製作者)東亞キネマ株式會社/(申請者)八千代生命保険株式會社/複一 ・1925年9月18日/2458番/日、實、風/震災前の帝都の壯觀/1巻/282メートル/(製作者)岩岡商會/(申請者)八千代生命保険株式會社/複二 ・1925年10月14日/3400番/日、實、風/震災前の帝都の壯觀/1巻/302メートル/(製作者)東亞キネマ株式会社/(申請者)八千代生命保険株式會社/複三 ・1925年10月14日/3401番/日、實、風/震災前の帝都の壯觀/

  • 再開発地区で発見された「南池袋遺跡」の見学会に行ってきた。

    2023年2月4日に開催された「南池袋遺跡」の見学会に行ってきました! 到着したら、かなりの行列。 都会のど真ん中で発見された遺跡は注目度も高いですね。 地図ではここ↓ 豊島区南池袋2-40付近。 豊島区役所が近いです。 遺跡が発見されたのは南池袋二丁目C地区再開発南街区。 2021年8月から発掘調査が行われており、現在も調査は続けられています。 受付で資料もいただけました。 南池袋遺跡について詳細に説明されています。 発掘調査では、縄文時代や江戸時代〜昭和時代の生活の跡が見つかっていますが、特に重要な発見として、日の写真産業の始まりとなった「東洋乾板株式会社」の工場の建物跡があげられます。 オフィス街や繁華街としてにぎわう現在の池袋から想像することは難しいですが、豊島区内には明治時代以降さまざまな工場がありました。 雑司が谷地域の歴史や産業を語るうえで東洋乾板の工場は重要な施設だといえ

    再開発地区で発見された「南池袋遺跡」の見学会に行ってきた。
  • 昭和7年に建てられた銀座最古のビルと手動のエレベーターが味わい深い「こんな趣のあるビルがまだ残っているとは」

    あさみん@「商店街さんぽ」増刷決定! @papicocafe 全国のおもしろい観光地や変わったお祭り、懐かしい街並みなど探して回る、B級スポットお遍路さん。愛知県経済産業局「あいちの商店街ガイド」出演 / 著書【商店街さんぽ】(学芸出版社) /『文春オンライン』執筆/詳しくはブログ、Instagramをご覧ください。お仕事ご依頼☞ cygnereine@gmail.com https://t.co/YbjmjU0uhO

    昭和7年に建てられた銀座最古のビルと手動のエレベーターが味わい深い「こんな趣のあるビルがまだ残っているとは」
  • 東京(中野)から満州へ!長距離電話の遺構、ケーブルハット

    1984年生まれ岡山のど田舎在住。技術的な事を探求するのが趣味。お皿を作って売っていたりもする。思い付いた事はやってみないと気がすまない性格。(動画インタビュー) 前の記事:沖縄、静岡、函館…地方チェーン店のフライドポテトべ比べの旅 > 個人サイト オカモトラボ ケーブルハットを見に行こう! ケーブルハット。 そんな聞き慣れない言葉を教えてくれたのはラジオ塔の記事でも解説してくださった一幡公平(いちまんこうへい)さんだ。 一幡さんは仕事で岡山県内のほぼ全域をあちこち歩いている。その道中でケーブルハットというものを見つけたそうだ。ケーブルハットって何?そんな疑問を抱きつつ、実際に見せてもらうことにした。 道に詳しい一幡さんに案内してもらう。 一幡さんとは近くのショッピングセンターで合流し、僕の運転で向かう。途中、道がとても狭い場所があるというので少し心配だ。 岡山県の広島県寄りにある浅口市

    東京(中野)から満州へ!長距離電話の遺構、ケーブルハット
    yuzuk45
    yuzuk45 2022/08/11
    ハット同盟に参加させねばhttps://togetter.com/li/1926479
  • 1975年頃の新宿喫茶店マップを作り、300店の「いま」を調べた

    純喫茶と呼ばれる古い喫茶店が好きだ。 かつて最先端だったモダンな空間にそのままタイムスリップできる店や、歳月の分だけ店主の人柄が滲み出たような味わい深い店。そんな、いい歳の取り方をした名優のような喫茶店にロマンを感じる。 1975年出版の古い喫茶店を読んでいたら、当時の新宿にあった喫茶店を網羅した貴重な記事を見つけた。 それらを昔の住宅地図と照らし合わせながらGoogleマイマップ上にマッピングし、45年以上を経て今も残る喫茶店を巡ってみた。 その先で素敵な店に出会い、マスターから当時の貴重なお話をうかがうことができた。 『喫茶・スナックのすべて 企画・設計・運営のチェックポイント』商店建築社、1975年 これがその古書だ。当時のプロ向けので、最先端の内装デザインや営業スタイル、今後の業界動向などが載っている。 過去の未来予想図としてこれ自体も大変面白いのだが、史料的価値がある!と特に

    1975年頃の新宿喫茶店マップを作り、300店の「いま」を調べた
  • 中野に大正時代の刑務所の跡が残っていた - 足跡を辿る

    何となく古地図を見ているときのことだった。中野駅の近くに大きな建物を見つけた。調べるとかつてそこには大正時代からの刑務所があったらしい。しかもウィキペディアによると、跡地には今でもレンガ片や土塁が残っているらしい! ところが、レンガや土塁の跡について調べても何も情報が出てこない。ならば自分で調べてみよう。 実際に行ってみたところ、思った以上にいろいろな跡が残っていることがわかってきた。 謎の施設発見 はじまりは古地図だった。 まずはこれを見てほしい。左が大正5年、右が現在の地図だ。東京の中野駅あたりを表している。(今昔マップより) 南にある横線が中野駅だ。北側と南側に大きな施設がある。南側はかつての日軍の用地。スパイ活動で有名な「陸軍中野学校」があったのもこの場所だ。 そして注目したいのは北側。左側の大正の地図に書いてあるのは「豊多摩監獄」。 監獄。つまり刑務所だ。まさか中野にあったとは

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