40歳になるまでにいろいろ「やめた」。必要なのは、未来を見据えた諦める力と、幾許(いくばく)かの経費。結果として手に入れるのは、したくもないのに続けていた物事によって奪われていた、本来は自分のものであるはずの、自由な時間。 傍目(はため)には「何もしていない」と見える時間の余白、ノリシロがないと、私はまともな社会生活を送れない。同僚が息抜きのおしゃべりをしている間、一人だけじっと黙っているのも、地下鉄で行ける場所へタクシーで急行するのも、あるいは車を拾うべき距離をわざわざ遠回りして徒歩で帰るのも、わずかな隙間を縫って「何もしない」時間を確保するためであり、そうした充電時間を確保してようやく、私は人間社会と足並みを揃えることができる。 時間が惜しい、時間が惜しい、自由な時間がまったく足りない、と嘆くと、たまに「泳ぎ続けていないと死んでしまうワーカホリックな人」だとか、「要領と手際がよく、もの