わたしは文章を書いている。あるいは絵を描いている。 わたしはわたし自身を信じない。わたしの全てを疑っている。 たとえばあることについて語っているとき、そのほとんどが、自分の言葉ではないことを自覚している。わたしはわたしひとりの個性によって形成されてはいないことを、自覚している。 わたしのことばは、いつも過去に誰かが語った言葉であり、歌であり、どこかで読んだ文字でもある。それすらも、はるか昔に誰かが語った言葉に違いない。そしてさらに遡れば、また違うどこかの誰かの言葉になる。名のあるひと、あるいは無名のひとたちの言葉。はじめに言葉ありきってやつだ。 そうしてわたしは、連綿と紡がれていくそういうものの末端を捕まえて、わたしはわたしの言葉として、感受性として、知るや知らずや無意識にも持ち出し、時にしたり顔で語っているに過ぎない。 だがわたしは決してそのことを恥じているわけではない。むしろそれを当然