「麗奈ー。練習終わったし、一緒に帰ろ」 「あ、久美子。それが…」 「あー、ゴメン黄前ちゃん。ちょーっと高坂さんと話あるんだ。今日だけ貸してくんない?」 「え。夏紀先輩、が?」 「…そういうことなの」 「は、はぁ、別に構いませんけど……ちょっと麗奈、また何か言ったの?」 「何も言っ...
「黄前、アンタ……高坂と、その、付き合ってんの?」 「……………は?」 「だーかーら。高坂と、こっ、恋人同士なのかって聞いてんの」 「…はぁ? い、いや違いますけど。てか優子先輩、なんでそんなこと」 「アンタたち、いっつも一緒にいるじゃない。朝練も毎日一緒だし」 「まあ、友達って...
私は重度障害者のアニオタだが、もっと障害者がアニメに何の理由もなく出てくるようになってほしい。そこで、本記事ではアニメにおける障害者キャラの取り扱いについて考察する。 まず、日本のアニメに出てくる障害者のうち、殆どは後天性の障害者である。何かの事故で、あるいは事件や戦いの中で傷を負い、障害者となるパターンが圧倒的に多い(コードギアスのナナリーなど)。このパターンだと、障害を持っている理由を簡単に説明できるうえ、過去のトラウマ・因縁との対決という図式で話も作りやすい。つまり対決すべき暗い過去としての障害である。 稀に先天性の障害者が出てくることもある。だがそういう場合、大抵は障害と引き換えに超人的な能力を持っている(例:盲目だが敵の気配を全て察知する剣士など)。いわゆる強キャラポジションである。この場合、障害はキャラの強さに対する箔付けや、キャラの能力をピーキーにするための理由付けとして用い
『響け!ユーフォニアム』5話、本当に素晴らしかったです。中でもBパートから終盤までの流れが本当に最高で何回も観返してしまったのですが、観終えた後には必ずと言っていいほど深い溜息を突いてしまうくらい今回の話には良さを感じました。 まず、久美子の主人公らしい雰囲気がとても良いです。特に大きな目標があるわけでも壮大な夢を掲げているわけでもない彼女ですが、その足捌きが少しずつはやり、前へ前へと進んでいく様子は観ていて強く胸を打たれるものがあります。自らを振りだしに戻そうと思案していた1話とは逆に、一つの流れの中に身は置きつつもその舵だけは自らの手で動かそうとする能動的な所作。それこそ部活を放棄していた先輩とは違い、自らの意思で吹奏楽と向き合い続けてきたのは彼女自身です。 「なんとしても吹奏楽部としてやり直したいわけではなかった」あの日の心情が、なんとなく、曖昧ながらも進んでいけるのなら進んでみよう
みぞれが髪を掴む仕草が描かれたのは、劇中でおそらく12回程*1だったでしょうか。寡黙にして映像*2で語ることが主体とされた本作にあって、彼女のこの癖は強く印象に残り、決して多くを語ろうとはしないみぞれ自身の感情を映すものとして重要な役割を果たしていました。足や手の芝居、瞼、眼球の動きにまで心情の変遷・動きを仮託していた今作ですが、冒頭から終盤まで物語の転換点となる場面で描かれたこの癖はその中でも特に強調されていたように思います。 ただその仕草が具体的にどういった感情を代弁していたのか、ということまではハッキリとは分からず、むしろその描き分けはぼんやりと感情の輪郭を描くに過ぎませんでした。なにかを言い淀むように髪に触れ、掴み、心の中に留める仕草。それは明確な心情が芝居から滲み出る類のものではなく、“なにかしらの感情・言葉を心の内側に抱いている” と感じ取ることが出来るだけの芝居であり、そんな
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