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2018年6月23日のブックマーク (2件)

  • 野安の電子遊戯工房 ~話題の「ゲンロン8 ゲームの時代」を読んでみた・その2~|野安ゆきお

    昨日に引き続き、いまネットで話題の「ゲンロン8 ゲームの時代」について、思うところを書いてみます。 たくさん発見できる事実誤認についても、いろいろと書きたいことはあるのですが、それらはいったん横に置くとして、ここではゲームを捉えるときの全体的な視点に関する違和感について書いておきます。 ものすごく気になったのは、テレビゲームというコンテンツを、かなり偏った視点から取り扱っていることです。まるで小説映画のように個人がテクストと対峙する形式のコンテンツと同じように、テレビゲームという文化を捉えようとしているといいますか。 そこには、モニターの前に複数のプレイヤーが集い、ゲームを楽しむという光景への洞察が希薄です。テレビゲームが持つ、みんなが楽しむパーティーグッズ的な側面は、ばっさりと切り捨てられている。そちらに注ぎ込まれた開発者たちの労力は無視されている。 これが、個人的なゲーム評であるとい

    野安の電子遊戯工房 ~話題の「ゲンロン8 ゲームの時代」を読んでみた・その2~|野安ゆきお
    zmzizm
    zmzizm 2018/06/23
    まさにここでされているような作品についての語りが成り立つのだとすれば、その1の主張はおかしいのでは
  • 野安の電子遊戯工房 ~話題の「ゲンロン8 ゲームの時代」を読んでみた~|野安ゆきお

    ネット上で話題になっていた「ゲンロン8 ゲームの時代」を読んでみました。なるほど、これはネット上で嘲笑の声が出まくって当然、というでした。 わたしが気付いただけでも、事実誤認がたくさんありました。 とはいえ、ゲームを語るときに事実誤認があることは、たいした問題ではない――ということは、まず明言しておきましょう。このが、ゲームに関わっている人たちの怒りを呼び、また呆れさせている根的な要因は、そういうところにあるのではないのです。 (前略)単にコンピュータゲームの盛衰を社会現象として辿るというものではなく、かといってゲームプレイの魅力を個人の経験に基づいて語るというものでもなく、ゲームという新しい技術あるいはメディアの登場がいかに二一世紀を生きる私たちの生と認識を規定しているか、その連関を探る~(後略) [P.006] というスタンスからゲームの話題を取り扱うと宣言しているところに、じつ

    野安の電子遊戯工房 ~話題の「ゲンロン8 ゲームの時代」を読んでみた~|野安ゆきお
    zmzizm
    zmzizm 2018/06/23
    他の芸術形式とくらべて鑑賞者間の経験のちがいがそれほど大きいとは思わないし、鑑賞者間で経験がちがうという事実から作品自体についての議論ができないということも導かれない