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yanakaに関するzmzizmのブックマーク (10)

  • <東京写真遺産>1972年・谷中の蛍坂 残し残せた江戸情緒:東京新聞 TOKYO Web

    (1)石垣と板塀に挟まれた細い蛍坂。左側には瓦屋根の住宅が並ぶ。名前は近くにホタルの名所があったことにちなむ 全長約八十メートル、幅は人がすれ違えるくらい。そんな小さな坂にも名がある。蛍坂。着物の女性が下る先にはかつて、蛍沢と呼ばれるホタルの名所があった。 一九七二年、多摩美術大三年だった林田廣伸さん(68)=東京都練馬区=が授業の課題で撮影した。結婚するまで暮らした台東区谷中の実家から歩いて十分。小学生のとき同級生に教わり「坂を知っていることが秘密っぽくて特別な感じ。わくわくしながら通った」。対照的に、坂の裏手にある寺院・加納院の森加奈子さん(52)は、「塀と崖に挟まれた狭くて暗い一道で、怖かった」と振り返る。

    <東京写真遺産>1972年・谷中の蛍坂 残し残せた江戸情緒:東京新聞 TOKYO Web
  • 文京区で神田白山線 - 新しい道路

    街 文京区に位置する道路神田白山線 地図、場所、歴史、座標と神田白山線の 文京区の道路付近を検索します。 文京区の路上神田白山線への道をお探しですか?問題ありません。ここで神田白山線の 文京区の道路へのルートを計算します。 座標都市神田白山線の 文京区の路上へのナビゲーションにこれらの座標を使用します。: 緯度:35.7248155 経度:139.76307

    文京区で神田白山線 - 新しい道路
  • 谷根千のいまむかし - LIVE JAPAN

    寺町の谷中、職人の街だった根津、文豪や芸術家に愛された閑静な街、千駄木。頭文字をとって「谷根千」とよばれるこのエリアには、町の至る所に歴史の足跡が残されている。その足跡を辿ってみると、昔の街並みが見えて来る。 谷中は「谷中生姜」という今にその名を残す生姜が特産の農村だった。1625年に江戸城の鬼門にあたる上野に寛永寺が創建され、それに伴い、上野にほど近い谷中にはお寺が多く建てられた。さらに1648~1651年に幕府の政策により、隣接区の神田界隈から多くの寺院が谷中に移転してきた。これにより寺の数が飛躍的に増え、今も谷中には70以上もの寺院が点在する「寺の町」となっている。谷中のメインストリート「三崎坂」の沿道の両側は、民家よりも寺の数の方が多いほどで、谷中が寺の町だということを象徴する通りである。 住所 110-0002 東京都台東区上野桜木1-14-11 地図をみる 最寄駅 上野 駅 (

    谷根千のいまむかし - LIVE JAPAN
  • 「谷根千」谷中散歩 〜坂と寺のある町〜 - 時空トラベラー THE TIME TRAVELER'S PHOTO ESSAY

    谷中という地名は、上野台地と郷台地の谷間に位置していることに由来しているという。江戸時代以前から尾根筋には町が形成されていたが、江戸時代になるとこの町人町に寺院が集められ寺町が形成されていった。その結果、辺りは門前町として繁栄する。高低差のある地形に網の目のように路地が走っていて独特の景観を呈している。幕末から明治の激動期にはすぐ東隣の上野のお山、寛永寺が戊辰戦争の激戦地となったが、谷中は戦火を免れた。また第二次大戦の空襲でもこの町は焼け残ったため、古い江戸の下町の佇まいを今に残している。とはいえ京都市内や大阪上町台地のような町家街としての景観は、東京の急速な近代都市としての発展の陰でかなり消滅していまっていて、今はむしろ東京の「昭和」な住宅街、商店街のそれになっている。これはこれでとてもノスタルジックで散策が楽しい。また、最近この辺りは谷中、根津、千駄木を含め「谷根千(やねせん)」と呼

    「谷根千」谷中散歩 〜坂と寺のある町〜 - 時空トラベラー THE TIME TRAVELER'S PHOTO ESSAY
  • まちづくりの契機(谷中が谷中でなくなる)

    Vol 8.2 寺町・谷中 都会の隠れ里、雑誌でまちづくり ―地域価値を発掘、世間の支持を得て修復・保存― 東京藝術大学美術学部建築科 講師 河村 茂 氏 博士(工学) まちづくりの契機(谷中が谷中でなくなる) 近代化の波から取り残された感のある、この谷中のまちも経済の高度成長期の終わり頃からバブル期にかけ、幹線道路沿いなどで地上げが見られるようになり、まちの景色が変わりかけていた。これに気づいた人たちが危機感をもち、ようやくこの地のまちづくりが始まる。ただし、この地のまちづくりは再開発型のものではなく、修復・保存型のまちづくりである。 この修復・保存型のまちづくりは、実は容易ではない。なぜなら何をどのように守り維持していくのか、その守るべき対象、価値を皆が共有しなくてはならないからである。つまり皆がこれがこの地の魅力・価値だと捉え、これを維持するべく地域合意する必要がある。そこでこの地の

    まちづくりの契機(谷中が谷中でなくなる)
  • 東京都台東区谷中・地区計画の経緯についてのまとめ

    東京都台東区谷中・地区計画の経緯についてのまとめ
  • 日暮里崖線の消えた坂道をめぐる(その2) - マーちゃんの数独日記

    4月28日(日)、日暮里崖線の消えた坂を次の様に巡った。 善光寺坂→(言問通り)→寛永寺坂駅→谷中霊園→御隠殿坂→御隠殿跡→芋坂→紅葉坂→御殿坂 (青字が該当坂) 京成線が上野から日暮里へ向かう地下駅に「博物館動物園駅」だけではなく「寛永寺坂駅」があったとことを最近知って、まずはその駅はどこにあったのかを探った。その駅への入口は言問い通りを谷中から善光寺坂を昇り、谷中霊園へと左折する辺りにあったらしいが「動物園駅」の様な遺構は見つからなかった。電車の通る轟音が聞こえ、その音を頼りに進むと上野山隧道を抜け日暮里へと向かう京成電鉄が見えた。トンネル入口には「東臺門」と書かれた扁額が見えた。(写真:トンネルを抜ける京成特急) 帰宅して調べるとこの扁額は「揮毫は京成電気軌道の創立者、多貞次郎によるもので、左端に縦書きで昭和八年の日付と同氏の署名がある。 この地下線が開通した当時、多は京成の社

    日暮里崖線の消えた坂道をめぐる(その2) - マーちゃんの数独日記
  • もうひとつの藍染川の、ものがたり - 暗渠さんぽ

    かつて東京都内には、藍染川と呼ばれる川が何かあったといわれます。 ひとつは、神田の紺屋町あたりを通るもの(痕跡が少なすぎるのため当ブログでは紹介していません)。 それから、浅草のほうにもあるようですが、これは未訪。 そして、いま下ってきている、谷田川の下流部としての藍染川。いずれも現在は暗渠です。 ・・・しかし、実はもう一、あるのです。荒川区内だけで「藍染川」と呼ばれている川が。 その川のことを、以前一度だけ書いたことがあります。藍染川排水路、として。当時は大まかにしか知らなくて、三河島の汚水処理施設を見学したついで、という書き方でした。 荒川区で資料を漁っていて、この水路に秘められた区民の想いに初めて触れることとなりました。荒川区外と、区内で、こんなにも違うものなのか・・・。 呼び名もそんな違いのひとつ。自分にとってのこの水路の初出は川の地図辞典でした。そこには「谷田川排水路」として

    もうひとつの藍染川の、ものがたり - 暗渠さんぽ
  • 寛永寺坂、御隠殿坂(谷中霊園) 台東区谷中・上野桜木 - 墳丘からの眺め

    こちらの記事のつづき。 massneko.hatenablog.com 鶯谷駅のすぐ北にある言問通りの橋上から。 この橋を上野の山へ上って行くと、左側の歩道の先に標柱があった。 寛永寺坂(かんえいじざか)の説明。 大正年間(1912~25)発行の地図からみて、この坂は同10年ごろ、新設されたように推察される。当初は鉄道線路を踏切で越えていた。現在の跨線橋架設は昭和3年(1928)8月1日。名称は寛永寺橋である。坂の名をとったと考えていい。坂の名は、坂上が寛永寺境内だったのにちなむという。寛永寺は徳川将軍の菩提寺だった。坂上、南に現存。 もとは崖下の山手線まで下りる急坂だったのだろう。 そのまま言問通りを進むと、風情のある店構えが。 8年以上前に閉店した「おでん屋」で、おせんは女将さんの名前だった。 吉田類の酒場放浪記 BS-TBS | お店情報 がんばって残っている建物が、再びお客で賑う日

    寛永寺坂、御隠殿坂(谷中霊園) 台東区谷中・上野桜木 - 墳丘からの眺め
  • 徳川慶喜墓・天王寺五重塔跡(谷中霊園)、寛永寺 台東区谷中・上野桜木 - 墳丘からの眺め

    前回のつづき。 これまで何度も上野へ行きながら、谷中霊園と寛永寺を訪れたのは初めてだった。 谷中霊園の案内図にあった「徳川慶喜公墓所」に惹かれてそちらの方向へと向かった。 広い墓地を迷いつつ、木立の方へ。 途中に大きな五輪塔があったが、どちらの方のものかわからず。 柵に囲まれた一画が慶喜公の墓所だった。 ガイドと一緒の方もいて、なかなかの賑わい。 説明板があった。 東京都指定史跡 徳川慶喜墓 所在地:台東区谷中7-2 寛永寺墓地内 指定:昭和44年3月27日 徳川慶喜(1837から1913)は、水戸藩主徳川斉昭の第七子で、はじめは一橋徳川家を継いで後見職として将軍家茂を補佐しました。慶応2年(1866)、大5代将軍職を継ぎましたが、翌年、大政を奉還し慶応4年(1868)正月に鳥羽伏見の戦いを起こして敗れ、江戸城を明け渡しました。復活することはなく、慶喜は江戸幕府のみならず、武家政権最後の征

    徳川慶喜墓・天王寺五重塔跡(谷中霊園)、寛永寺 台東区谷中・上野桜木 - 墳丘からの眺め
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