作家の村上春樹さんがエルサレム賞を受賞した。 イスラエルによるガザ攻撃の後だけに、日本国内でも受賞は 攻撃の正当化につながるとの論議があった。 だが授賞式の記念講演で、村上さんは最前列に座るペレス 大統領を前に「壁と卵」の比喩を用いてイスラエルを批判した。 壁は強大な軍事力を持つ体制、卵はそれにぶつかり割れる 個人を象徴する。 そして「私は常に卵の側に立つ」と語ったのだ。 講演後、会場では大きな拍手がわき起こった。 歓声も上がった。 その場にいた私も感銘を受けた。 しかし、何か、もやもやが残った。 あえてイスラエルに来て、文学的表現で批判する日本の作家。 それを受け止めるイスラエル人。 知的な緊張と交歓。 そこに紛争の一方の当事者であるパレスチナ人、アラブ人は 不在である。 あまりに大勢が殺され、一人ひとりの人格が消えて「1300人」という 数字に置き換えられてしまうのと同じように。 パレ
エルサレム賞のムラカミさんが、また雑誌で弁解しています。 もう1カ月もたって、みんなすっかり忘れているのに、またまた弁解とは。よほど気が小さいか、後ろめたいのでしょうか。 文芸春秋4月号を買って「僕はなぜエルサレムへ行ったのか」を読ませてもらいました。 注<提灯(ちょうちん)小僧> 人が意味もなく殺された場所あたりに、小雨のふる夜に現れる。夜道を歩く人を背後から追い抜いては立ち止まって待ち、追い越されてはむきになって追い越す。理想と現実のギャップに悩んでいるのだという。 (2月20日の「ほら、となりに妖怪がいるよ・下」参照) ムラカミさんは「僕なりに深く考慮し、個人の資格でエルサレム行きを決断した」と書きました。 一読しての感想は、正しいと思って行動したというのなら、弁解などすべきではない、に尽きます。 さらに「ネット空間にはびこる正論原理主義を怖いと思う」に至っては、小泉さんじゃない
作家の村上春樹さんが十五日行った「エルサレム賞」授賞式の記念講演の要旨は次の通り。 一、イスラエルの(パレスチナ自治区)ガザ攻撃では多くの非武装市民を含む1000人以上が命を落とした。受賞に来ることで、圧倒的な軍事力を使う政策を支持する印象を与えかねないと思ったが、欠席して何も言わないより話すことを選んだ。 一、わたしが小説を書くとき常に心に留めているのは、高くて固い壁と、それにぶつかって壊れる卵のことだ。どちらが正しいか歴史が決めるにしても、わたしは常に卵の側に立つ。壁の側に立つ小説家に何の価値があるだろうか。 一、高い壁とは戦車だったりロケット弾、白リン弾だったりする。卵は非武装の民間人で、押しつぶされ、撃たれる。 一、さらに深い意味がある。わたしたち一人一人は卵であり、壊れやすい殻に入った独自の精神を持ち、壁に直面している。壁の名前は、制度である。制度はわたしたちを守るはずのものだが
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