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ブックマーク / muse-a-muse.seesaa.net (20)

  • 壁と卵の話(壁作りの是非について): muse-A-muse 2nd

    けれどもこれら新世代沖積世の 巨大に明るい時間の集積のなかで 正しくうつされた筈のこれらのことばが わづかその一點にも均しい明暗のうちに (あるひは修羅の十億年) すでにはやくもその組立や質を變じ しかもわたくしも印刷者も それを変らないとして感ずることは 傾向としてはあり得ます けだしわれわれがわれわれの感官や 風景や人物をかんずるやうに そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに 記録や歴史、あるひは地史といふものも それのいろいろの論料といっしょに (因果の時空的制約のもとに) われわれがかんじてゐるのに過ぎません おそらくこれから二千年もたったころは それ相當のちがった地質學が流用され 相當した證據もまた次次過去から現出し みんなは二千年ぐらゐ前には 青ぞらいっぱいの無色な孔雀が居たとおもひ 新進の大學士たちは気圏のいちばんの上層 きらびやかな氷窒素のあたりから すてきな化石を發堀した

  • 宮本常一、1984、「忘れられた日本人」: muse-A-muse 2nd

    歴史は苦手でも 自動車がなかったころの日田舎の暮らし 忘れられつつある『忘れられた日人』 恵那の河原で夜が明けた… 聞き書きしなければ、知られることもなかった人々の物語 まだ日の識字率が低い時代の老人たちの語り、それをフィールドワークで採集したものってことだけど地味に面白かった。その辺の語りは歴史に刻まれなかった人々の生活史であり生の歴史って感じなんだけどそれ以外にも社会構造的に「西日の社会構造と東日の社会構造は違う」って話が面白かった。社会構造っていうか組織論か。 以下、網野善彦によるあとがきから (327-328) 「対馬にて」をはじめ「村の寄りあい」「名倉談義」などで、宮氏は西日の村の特質をさまざまな面から語っている。帳箱を大切に伝え、「講堂」や「辻」のような寄り合いの場を持ち、年齢階梯制によって組織される西日の村の特質が、これらの文章を通じて、きわめて具体的に浮き

  • 吉本隆明、1982、「<反核>異論」: muse-A-muse 2nd

    違和感というのは小熊では吉をして戦争の影響で教養をつめなかったはねっ返り世代(前の世代へのクレーマー)的にまとめていたような印象があったんだけどそれだけでもないんじゃないかなぁ、と。 吉の一個前の世代というと丸山真男辺りが代表的なものになるのだろうけど、丸山真男などが「社会的コミットによって正しさを再構築する」ってちょっとガチガチな感じで行っちゃったのに対して、「社会ってのは"正しさ”だけじゃないんだぜ?」的なオルタナとなったのが吉たちだったんじゃないかなぁと思って。 「社会」というか「大衆」への視線といったほうがいいか。 正しさのフィクション - 論理的、理性的につめていくと「正しさ」的に硬直したりタテマエ-教条的になるところがあるけどそゆの回避して嗅覚でホンネみつけてくるっていうか。 大衆への視線ということだと鶴見も含まれるのだろうけど鶴見が(ハイカルチャー的なものに対する)大

  • 小熊英二、2002、「<民主>と<愛国>」: muse-A-muse 2nd

    戦争体験が思想にどう影響したかを、ナショナリズムを中心に分析した 自分であること 俺って愛国者だったんだ。 確かに『私たちは「戦後」を知らない』と言える 「心」と「言葉」から迫った戦後史 全体の話の流れとして戦後の日の思想史を概括しつつ、<戦後民主主義は誤解されてるのでもう少し見直されてもいいかも>、って話。具体的には丸山真男、竹内好辺りの読解に誤解があったのではないか、と。 丸山真男は全共闘辺りで戦後思想の権威の象徴として糾弾されちゃったんだけどそれとは逆にもちあげられた竹内好と目指していた地点は同じだった。具体的に言えば両者とも公へのコミットメントの重要性を説いていた点で共通していたが竹内のほうがやや分かりにくくロマンチックな言葉使いだったため全共闘受けが良かったのだろう、って話。 公へのコミットについては戦後しばらくは「個人の欲求(エゴ)を廃して全体に寄与する」って路線と「全体の

    klov
    klov 2008/10/07
    ううう俺も早く読まねば
  • ケータイ小説的無名空間の可能性について(メモ): muse-A-muse 2nd

    著者の思いつきに過ぎないのでは 「コミュニケーションの檻」が生み出す「物語」 ケータイ小説の思想 久々にセンス・オブ・ワンダーを味わった 間違い無く楽しめる! (読んでないけど)「地方のヤンキーのリアリティはケータイ小説の中に存する」って話だったみたいなので。 そこで共有される言葉やイメージは貧困なものだけど貧困であるがゆえに間口が広い、と。たとえば専門用語的なものが少ないほど共感は呼びやすいとか…(対話の両者が思ってるイメージは違っても会話の糸口としては機能する)。そして無名であり匿名であるということ。 「無名で匿名な言説の可能性」。2ch的空間の可能性でも語られることだけど、当人が無名な立ち位置にあることによってポジショントーク的なところに話が流れないで純粋に双方の意見交換ができる、って可能性。社会的立場から自分の所属してる組織を擁護する必要がないし、言い合いに負けて当人の沽券とか面子

  • リアリティ・トランジット (サバイブ時代のリアリティって?): muse-A-muse 2nd

    ここで引用されている「平坦な戦場で生き残ること」って言葉もW.ギブスンなわけだけど、ではそういった流れ、「ブツヨク的憧憬」→「虚構への(自覚的)耽溺」→「その2つを否定することで薄い蓋然性を取り払おうとする欲求」という流れがあるとしてアキバ事件というのはどのように位置づけられるのか。 某所では「永山則夫事件を髣髴とさせる」とか「格差社会の象徴だ」的な言われ方がしたわけだけどそれだけでもないように思う。アキバという場も絡んでたわけだし。 ここであの事件の内実について上記のフレームから触れていくことは意ではないので控えるけど、ブツヨク的な問題と虚構的な問題の狭間って感じがする。てか、承認うんぬん的に他者を意識して視野狭窄してたようなのでサカキバラ事件からの流れとも違うような。(サカキバラ事件は周りに「他者」を感じられなかったために過剰な暴力性によって現実に風穴を開けようとした事件としてとらえ

    klov
    klov 2008/08/03
    面白い。折り返し地点、か。
  • 筒井康隆がウケた背景みたいなの: muse-A-muse 2nd

    これについてはちょっと前のエントリでも少し触れたんだけど muse-A-muse 2nd: ルサンチマンって新中流層辺りから出てるのかねぇ 中流層の教養ダダすべり問題っていうか動物化うんぬん問題とも絡むんだけど、読み進めてたら筒井康隆について言及してる箇所が出てきてそれがたんぶらーでたまたまみたエントリとリンクしたものでメモ的に。 むーたん - この小説は一日一話ずつ掲載という新聞連載の特性を利用し、その日の掲載分を読んだ読者からの、投書やASA... (※以下、「朝のガスパール」についてのwikipediaの引用から孫引用) この小説は一日一話ずつ掲載という新聞連載の特性を利用し、その日の掲載分を読んだ読者からの、投書や ASAHIネットのBBSへの投稿を作品世界に反映させ、虚構と現実の壁を破るという実験的手法がとられた。具体的には、投書や投稿により物語の展開に対して読者が作者に要望を出

  • 公開性と限定公開性の間ぐらいの話: muse-A-muse 2nd

    読書メモとかblogメモ的に。 公共性あるいは公開性、オープンソース的参画とシステム合理性の問題について。めどさんえっささん辺りから。めどさんのはこれ みんなの意見で社会が滅ぶ - レジデント初期研修用資料 めどさんが言うように「みんなの意見は案外正しい」だけじゃ社会は回らないように思う。その意味では前にも言ったようにえっささんのこれとかびみょーな感じ 公開できない「暗部」のある組織はもうもたない、でもそれだけのこと - アンカテ 新聞とは報道機関ではなく権力装置であると中の人は考えているらしい - アンカテ ↑への感想メモみたいなのはこの辺 むーたん - m_um_u:この手の「新聞は権威をかさにきている(自分達が権威であり中心だと思っている)」ってのはよ... おーざっぱにいうと「システム合理性 / コミュニケーション合理性」な問題にも似てるな、と。コミュニケーション合理性な人は「オー

  • ルサンチマンって新中流層辺りから出てるのかねぇ: muse-A-muse 2nd

    そこで展開されている問題意識というか、対象が似てるなぁ、と。 「公共性」論のほうはロールズやらノージック、アレント、アガンベン辺りの公共性関連の話が簡易にまとめられてるということで重宝しそうだなと思って読み始めたんだけどけっこうめんどくさい文体でなかなか読み進まず最近の糞詰まり的フラストレーションの原因になってたように思うんだけどそんなこといってても仕方ないのでちょこちょこ読み進めるようにしてる。…かたつむりの歩み んで、まだ途中なんだけどそこで出てきた「他律的リベラリズム」という概念が最近の関心にフィットしてるな、と。東浩紀が「動物化」として指摘してる層とほぼ同じということなんだけど。曰く、「他律的リベラリズム(ひ弱なリベラリズム)は自らを支えるリベラルな法と秩序を構築、維持して自己統治することはできず、統治を他者にゆだねる」、と。社会的枠組みを超えることには興味を示さない。たとえばso

    klov
    klov 2008/07/20
    希望は内戦。
  • 論理的思考様式と詩的思考様式 (アナログ的思考の可能性、「魂の座」ら辺): muse-A-muse 2nd

    mixiで書いた内容をもそっとブラッシュアップして自分用の課題リストでもくっつけたエントリを仕上げとこうと思ったんだけどいざやるとなるといろいろめんどくさくなってきたのでついったーでてけとーにつぶやいた次第。 んで、めんどーで無精なのでそれをそのまま貼り付けちゃうよ♪ その前にミクシで書いたのもいちおリンクしとかないとフェアじゃないか・・(つか、あまり晒したくもないのでついったーでもリンクしなかったけどまぁいちお) [mixi] 自動筆記(全体)的思考と論理(分析)的思考、文字的記憶と図像的記憶、意識と無意識 ら辺 (仮) んじゃ、以下ついったーの内容。(※書籍部分の説明など一部追加) ミクシで書いた内容をさらに短く要約すると「論理的思考法あるいは記憶術、情報処理技術というものができることによってそれ以前の全体知のようなものが失われてしまったのではないか?」って問題意識。全体知って言い方だ

    klov
    klov 2008/07/02
     面白そう。
  • 世界にひとつだけのナベアツ: muse-A-muse 2nd

    あまり興味ないって言ったら興味ないんだけどついったでklovかなんかがみょーに反応してたような気がしたので 「世界のナベアツ」というお笑い芸人のネタ、「○○でアホになる」が教育現場で問題になってるみたいで 学級崩壊!? ナベアツ人気で小学校教員が悲鳴(日刊ゲンダイ) - Yahoo!ニュース 糾弾の理由づけとして「障害の人のことも考えろ!」、と 全ての人を笑わせる笑いってないけどさ・・・ - NC-15 まぁ、よくあるPTA的教条主義っていうか、過剰なフレーミングなんだろうなって程度なんだけど。ベタに斜め読みすると「お笑いはPTAで問題にされてこそナンボ!」でありダウンタウンやらタモリやらも通ってきた道だもんなぁ。。 つってもそういうの免罪符にしてことさらに差別表現をするってのは間違いだと思うけど、件のナベアツの人ってそういうの意識してやったんじゃないんじゃまいか?「アホ」の顔真似やってた

    klov
    klov 2008/06/29
    「糾弾」か「寝た子を起こすな」か。多分終わらない問題。みんなでとりあえず笑ってナベアツを一発屋にしちゃえればそれが一番なんだろうけど…。
  • ぜいたくな死: muse-A-muse 2nd

    元某局女子アナの人の自殺についてなんかもやもやたまったのでいちお吐き出しとこう。最初に断っとくと自分の意見が正しいとは思ってないし主張ってわけでもなく単なる個人的感想程度。 この件の動機については「報道志望だったのにそれがかなえられなかったのでフリーになったのにそれからも報道っぽい仕事もらえずアイドル扱いで悩んでいた」とか「恋愛関係で悩んでいた」とかもろもろあるみたいだけど真相はよくわからないしその辺については特に関心がない。率直に言って個人的には「ぬるい」という言葉が頭に浮かんだ。というか、まずイラ立ちのようなものを感じて言語化してみたら「ぬるい」って感じだった。 なぜそう感じたか。あとから問い直してみるに「報道」の部分がひっかかっていたのだろうか。「ほんとに報道志望だったのならコロンビアとかハーヴァード、Poynterなりに留学すればいいじゃん。金も時間もあったんだろうし」って感じか。

  • 「テレビ」化するネットの傾向と対策(仮): muse-A-muse 2nd

    朝の続きとして 最初にこちらのエントリを見たときは「テレビ的」という言葉のさしているものがなにかよくわからなかったんだけど テレビっ子をテレビ局が逃がしてしまうのは何故か - アンカテ(Uncategorizable Blog) 自分なりにまとめて解釈していくうちになんとなく分かったように思う muse-A-muse 2nd: 「分散は必然」ではなく状況に依るのではないでしょうか? つまり、ここでの「テレビ的」というのは「テレビ(マスメディア)的なものに情報の(分配に関する意思決定)権力が集中している」ということを表したかったのかな、と。 だとするとついったー辺りで当初予定していた「テレビ的」ということからの連想した内容とはちょっとずれるかもしれないけど「essaさんのエントリから勝手に連想した」ということでまぁひとつ。 んで、予告どおり「テレビ的とはなにか」ってことではこのエントリでとり

    klov
    klov 2008/03/28
  • 資本主義ってのは「自己責任」なんかじゃ済まされないシステムなんだけどね: muse-A-muse 2nd

    蜂っこからの質問(?)のようなものに応えてなかったなぁということでいちお。つっても、前のエントリでもいったようにワタシこの辺ど素人ですから、単なる自分的な思い込み+論証に過ぎませんよ?それでもよろしければ以下をご覧くらはい (※追記:長くて読みにくいのでいちお言外の前提とか文の主旨とか要約しとくと、「(自己責任論を唱える人は自分の行動の責任を自分がとれるということを前提に他者にもそれを要求しているように思うが)現代の日の社会システムにおいては知らない間に国家に依存したり市場に依存したりして誰もがもちつもたれつ的になってるので自己責任なんてのはできないんだよ」、って話です) sivad 資主義ってのは責任分散のシステムなんだけどね。 sivad つかまあ責任という概念自体がシステム上のモノか。 sivad そもそも株式ってのは起業家から株主への責任分散システム。「自己責任」どころじゃな

  • 「ギゼン」や「正義」的なものへの警戒によって互助の気持ちを疑うのってどうなんでしょうね?: muse-A-muse 2nd

    善が過剰になって前景→デフォルメ化されて、それを見た人たちが違和感覚えてアレルギーってパターンを最近チョコチョコみる。「ギゼン」ってことへ警戒だと思うし、ぼくもそういう「正しさ」の過剰性みたいなのはびみょーな気がしてるんだけど同時にこのギゼン叩きというのが人間に元からある(あるいは社会的に備わった)善への意志も否定するものなんじゃないかとちょっと危惧、っつーか嫌な気持ちがしてる。 「過剰な善性への警戒」ってのは具体的に言うとこの辺だけど 「正義商品」としての「障害」 - 福耳コラム 「「正義商品」としての「障害」」への反応まとめ - 福耳コラム 一青 窈さんのPVがすごすぎる件について - 深町秋生の新人日記 先日の大反響について - 深町秋生の新人日記 この辺の反応も分からんでもないっつーか、これ系でいうと福耳さんなんかは小沢健二の灰色物語なんか想起されるのだろうけど、さっきもいったよう

  • 「働いていない = 悪」なのか?: muse-A-muse 2nd

    ここのぶくま見てたら「ニート」って言葉が出てて直近でメモっときたいことがあったので軽く 「働かざる者うべからず」 - 忘れ去られるべき日々について はてなブックマーク - 「働かざる者うべからず」 - 忘れ去られるべき日々について 以下、ビッグイシューvol84の雨宮×宮対談から宮みち子さんの発言 (p16-17) (※太字は引用者によるもの) (オレ的にまとめると、「NEETという言葉は単に若者の不安定就労をさす言葉だったのに、日に入ってくる段階でナマケモノ的イメージがつけられてしまった」、という話) ニートという言葉は01年にイギリスでつくられた用語で、コネクションズという若者支援サービスが対象者を、13歳から19歳の「学校にも雇用にも職業訓練にも従事していない若者」と定め、それを「ニート」と呼んだのですが、その際対象としたのは、「不安定で、自活の困難な、社会から排除される可

  • ぼくらはもう一度物語を紡げるのだろうか?: muse-A-muse 2nd

    ちなみに「近代」ってのはこんな感じ 第6回 近代(モダニティ)とは何か:社会メディア論 ポスト・モダンとは、近代の「後」という意味です。この言葉を流行らせたのは、フランスの哲学者リオタール(ジャン=フランソワ・リオタール)という人ですが、およそこんなことをいっています(『ポスト・モダンの条件』1979)。〈学問を通じて、人びとは唯一の真理と正義に向かって進歩していける、と信じていた時代、これが近代だった。いまでは、そんなことはもうだれも信じなくなっている。私たちはいま、ポスト・モダンの時代に生きているのである〉。 彼の考えでは、近代とは、「理性」と「進歩」と「真理」とを信じていた時代です。人間が理性でもってきちんと考えれば、正しい答えが得られる。その正しい答えである「真理と正義」のほうに向かって、人間も社会も進歩していけるはずだ、と皆が信じていた。リオタールは、こうした信念を「大きな歴史

  • オタク世代論と文化消費の変容 (「動物化するポストモダン」): muse-A-muse 2nd

    L'Arc~en~Ciel is the best japanese band in the world. 「面白い見方」をしていると思う あまり心を打つものがないというか、、、 「せっかく読んだしちょこちょこ言及することもあるかもしんないからいい加減これをまとめとかないとなぁ」とか思いつつうにうにしていたところたけくまさんのところに関連エントリが上がってたので端緒にしてしまおう。 たけくまメモ : オタクはいつから差別されていたのか? たけくまさんとこの話は「オタクって言葉ができる以前にオタク的な趣味を持つ人々は差別されていたか?(「オタク」って言葉が差別を助長したように思うけど)」みたいな内容。つか引用しとこう 俺がもともと考えていた仮説としては、 「おたく(オタク)という言葉は、1983年に中森明夫によって“差別用語”として作られた経緯があるが、当初それを使っていたのはもっぱらオタク

  • ちゃんとすること / しないこと: muse-A-muse 2nd

    ついったーでぼけーっとログ見てたら@sivadさんが気になる発言をしていてそこから妄想が拡がっていったのでちょっとまとめ的に。まず最初にこのpostがあったわけです んで、犬儒派ってなんぞ?、って思って調べてたらこんな感じ、と ディオゲネス (犬儒学派) - Wikipedia 知識や教養を無用のものとし、音楽・天文学・論理学をさげすんだ。プラトンのイデア論に反対し、「僕には『机そのもの』というのは見えないね」と言った。プラトンは「それは君に見る目がないからだ」と言い返した。プラトンは、ディオゲネスはどういう人かと聞かれて「狂ったソクラテスだ」と評した。運動の不可能(おそらくゼノンのパラドックス)を論じている哲学者の前で、歩き回ってその論のおかしいことを示した。 唯一の正しい政府は世界政府であるといい、「自分はコスモポリタンだ」と言い、史上初めてコスモポリタニズムという語を作った。また女性

    klov
    klov 2007/11/03
  • ついったーをめぐる諸々 (連投 / 長文 / 速読 / remove /「removeしづらい」文化 / follow数と話題の関係 / 「おもろいついったーって?」などなど): muse-A-muse 2nd

    うついったーのほうにも感想書いたんだけどいちお Twitterでremoveしたくなる時 - ARTIFACT@ハテナ系 「長文連投が多い人はremoveしたくなることがあるよね」なエントリ。 これ自体はtwitterカルチャーの記録的なエントリという意味合いだろうから別にどうということもない。チラホラ言われている「follow人数の違いによる連投系ついったーとそうじゃないついったーの温度差の違い」みたいな話にも共通するように思う。つまり、「follow数が多い人はtimelineの流れが速いのでそれにつられてついったーpostが多くなるけど、follow数少なめ(post少なめ)なついったー環境にいる人はそういうついったージャンキーの連投を見てゲンナリしてしまう」、って話。 この辺の話は以前@TKRさんとも話したので個人的には解決済み。仮にそんな感じの連続postや長文postをする筆

    klov
    klov 2007/11/01
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