High Resolution Click this picture, please. All The Gallery ■ All The Gallery 緑色の坂の道 Early Essential ■ 「緑色の坂の道」 Early Essential 緑色の坂の道 Classic ■ 「緑色の坂の道」 Classic 甘く苦い島 Download Print ■ 「甘く苦い島」 Download Print
一世行人 6. ■ ここでは宗教的意義については触れなかった。 二十何体あるとされる即身仏の系譜についてもである。 ■夕べあしたの鐘の声 寂滅為楽と響けども 聞いて驚く人もなし(合の手) 花は散りても春は咲く 鳥は古巣へ帰れども 行きて帰らぬ死出の旅 ■「大菩薩峠」で使われていた「間の山節」である。 遠くでは賑かな音頭、この座敷では死ぬような間の山節。 これは伊勢のお話だが、桑原武夫さんがかつて指摘したように、日本の古層というのはどこにでもあって、繰り返し顔を覗かせる。土や浪の中から。 「それから今日まで、私は何度かミイラのことを考えることがあったが、どうしてもミイラ志望者たちの心の内部にはいって行くことはできなかった。日本には自分の意志で、自分の肉体をミイラ化し、衆生済度のため仏になろうとした人たちが実際にいたのであるが、この人たちの心理と行動を理解することは、凡夫の私には至難なことのよ
一世行人 5. ■ 井上靖さんが調査時に参加した二体のミイラは、いずれも内臓を抜かれていなかった。せいぜいが燻製法によって燻されたものである。 しかし明治に入ると湯殿山界隈における即身仏、ミイラ仏の成り立ちは次第に変貌し、ある種のピークを迎えていく。 鉄門海上人の没後ほぼ40年。明治期になって作られた鉄竜海上人の即身仏は内臓が抜かれ、中にびっしりと石灰がつめられていた。 腹は横一文字に斬られており、麻糸で結ばれている。 「寺男の丸山と炭屋のトウジロウの二人が上人の遺体を嵐の夜、墓から取り出し、(略)へ運び、そこで内臓を摘出、遺体を背負って五里の山坂を越えて(略)寺へ運び、天井からつるして乾燥させた」(松本昭:「日本のミイラ仏」18頁) ■ 寺伝では明治元年(1868)に鉄竜海上人は亡くなったとされているが、学術調査隊歴史班の調べでは明治11年である。 この辺りの松本昭さんの筆は、さすがに元
一世行人 4. ■ 昭和40年のことである。鉄門海上人の遺言状が見つかった。 同時に鉄門海上人入定の際の様子を記した清海上人の「記録帳」も確認されている。 遺言状には、高僧のそれのような宗教哲学は一切みられず、実生活上の細々とした指示ばかりが並んでいた。金の貸し借りや寺の運営に関する微細な注意などである。 内藤さんはこう書いている。 「清海上人は(略)の住職にまでなり、晩年に引退して(略)で余生を送ったが、念仏講のお婆さんたちに、鉄門海上人のミイラづくりの時に、炭火でいぶす臭いがあまりにもなまなましく、その光景がとても悲惨で痛ましいものだったので、自分は木食行までしたけれど即身仏になるのをあきらめて引退したのだと語っていたという」(前掲:171頁) ■ ここで目をひくのは、行人寺の住職になった清海上人が引退した、というところである。つまり、雇われていたということで、鉄門海上人が一旦は埋葬さ
一世行人 3. ■ 内藤正敏さんは優れた写真家でもあって、同書では即身仏の緻密な写真が何体も掲載されている。東北地方の写真といえばやはりこの方だろう。 本書の場合、大型カメラとストロボが特徴だった。大胆な構図。 1963(昭和38)年、25歳のときに湯殿山系の寺に篭り、即身仏と対面したのがその始めだったと内藤さんは書かれている。「月山」の森敦さんが一冬を過ごした寺と同一のところである。 当時は訪れるひともなく、毎日山菜ばかりが食卓にのぼり閉口したと記されているが、「月山」はまだ世に出ていない。 63年といえば60年安保闘争から暫く。 時代の趨勢ということもあったのだろうが、知識層の青年が遠い山寺に篭ることのできる時代だったのだな、という感慨を私は薄く抱いた。 また同書の、湯殿山系即身仏信仰の背景には重税と天明の大飢饉がある、との指摘は、やや飛躍はあるものの歴史の視点として説得力があった。
一世行人 2. ■ 内藤正敏さんの「日本のミイラ信仰」(法蔵館:1999)によれば、東北即身仏を生み出した寺の構造は、山内、僧侶、一世行人の三つである。 運営権を握っていたのは山内で、山内衆、宗徒、山内修験などと呼ばれた。 「彼らは半僧半俗で(略)普段は生業を持ち、参詣人(道者)がくると、祈祷や山先達、宿泊などの世話をした。そのため(略)、収入が保証されている上に、妻帯世襲が許されていたので、財産も蓄積されて裕福であった。したがって経済的に安定していた山内からは、一体の即身仏も生まれていない。 僧侶は、最上氏が没落したのち、家中の浪人武士などを剃髪してとりたてたが、読み書きができたので、それなりに優遇された」 「一方、一世行人は寺男のような存在で、掃除や炊事、蒔づくりなどの雑用をはじめ、御札つくりや祈祷の手伝いなどの下働きをさせられた。多くは出身階層も低く、なかには前科者や流れ者もいた。湯
一世行人。 ■ 井上さんが調査に参加したミイラは、そのことごとくが身体から内臓が抜かれていなかった。つまり、ミイラになる前の状態が、内臓をぬかなくても差し支えない状態になっていたということである。 井上さんは書いている。 「ミイラたちは全部が真言修験の行者たちで、それも湯殿山で修業した行人に限られていた。 行人というのは修験道の方では一番下の階級で、一生修業しても上の階級には上れない人たちである」(井上靖「日本の旅」平泉紀行:岩波書店:104頁) ■ 内臓を抜かなくてもいいような状態にもっていくには、三年五穀を断ち、後の三年は十穀を断つといったような木食行の年月を過ごす。 宗教的な意味を省けば、これは何年がかりの緩慢な餓死である。 また、望んだからといって、自分ひとりではミイラになることはできない。 長期に渡る修業中の食事の世話から、入定後ほぼ三年三ヶ月経った後で掘り起こし、その処置をして
平泉紀行。 ■ 即身仏について書くのは、どうしてか気が重い。 今まで触れる機会はあったのだが、ずっと先送りしてきたようなところがあって、どこまでを書きどこを省くかという差配が難しいのである。 写真。 そんな機会は訪れないだろうが、今のところ恐らく写真は撮らないだろうと思っている。 ■ 井上靖さんに「平泉紀行」という作品があった。 平泉にある藤原三代のミイラについて書かれたものだが、東北一帯にあるミイラ、即身仏についても並列に語られていた。 発端は、昭和25年朝日新聞社主催で行われた中尊寺の学術調査である。 その10年後、昭和35年に今度は毎日新聞社の後援で「出羽三山ミイラ学術調査隊」が組織される。新潟大学の山内俊呉、小片保、東北大学の堀一郎、修験道の戸川安章、早稲田大学の桜井清彦の諸氏が参加。毎日新聞社の松本昭氏が一切の采配を揮うこととなった。 松本氏は先に書いた「日本のミイラ仏」(臨川選
鉄門海。 ■ 先の緑坂、この怪談の原型になっているのは、湯殿山麓にある寺の「鉄門海上人」だろうか。 寺の名前はここでは明記しないことにしておく。 松本昭さんの「日本のミイラ仏」(臨川選書:1993)によれば、鉄門海上は寛政頃の人。 寺の伝承によれば、本名を砂田鉄といい鶴岡、青龍寺川の人足だったという。それが赤川遊郭の女郎とのことで武士と喧嘩、これを殴り殺して当該寺に逃げ込み、第69世の寛能和尚に助けられた。時に鉄は25歳。これが縁で一世行人を志願する。 ■ 寛政9(1797)年、鉄が仙人沢で修業中のある日、昔馴染んだ赤川の女郎がたずねてきて、夫婦になってくれとかき口説く。 暫く考えていた鉄青年は姿を消し、女に包みを渡して「俺をあきらめろ」と言った。中には男のそのモノが切り取られて入っていた。 女はそれをかき抱き、泣く泣く山を降りたが、以後は沢山の客がついて大繁盛。 女郎仲間に是非その一物を
おまいさんらしいね、ここを貰っていくよ。 ■ 山形に、こんな怪談があるという。 「庄内地方に住んでいた元三海(げんざんかい)上人は、若いとき散々悪事を重ねていた。これが羽黒の法師から諭されて即身仏になることになった。木の実と水だけで端座しつづけた。 元三海の仏所に入るのを嘆いた女どもが数多くいた。 中には恋こがれて最上川に投身した女もいた。この女は濡れたまま亡霊となって元三海の邪魔をした。元三海は、われはいまだ修業の身でいたらないので亡霊を鎮めることができずと高僧に女の供養を頼んだ。高僧は元三海を真裸にし、地蔵尊の姿とした。そこで高僧は筆を執り、元三海のからだじゅうにくまなく経文をしるした」 ■ ここまで読めば大方の粗筋はみえてくる。 「濡れた亡霊が現れてじっと元三海の姿を見ていた。元三海は一心に経文を唱え続けた。 女の亡霊は突然、ホホホホと笑い、おまいさんらしいね。ここを貰っていくよ、と
冬の果て 4. ■「月山」の中にこういう描写がある。 「わたしたちはすでに冬の果てともいうべきところに来ながら、それがいわば冬の頂であって、依然として冬であるかに見えるそのために、果てとも思えずにいるのかもしれません」(「月山」文春文庫版:80頁) ■ ま、そういうことだよな、と思いながら空を眺めている。 背の高い樹の上に鳥がいて、忙しく枝を渡っている。
冬の果て 3. ■ 聖と俗は隣り合わせだが、死と生、もっと言えば性もその区分は曖昧である。 その誘いに乗っていればその後どういう人生になったのだろう。 よく働くもの静かな寡婦はどういう腰つきをしていたのだろう。 主人公を囃すおはぐろの入れ歯のばさまと、何をしているかよく分からない修験者崩れのような黒いモンペ姿の男。その男と寡婦とのあいだがら。 男女の仲はどこまで本当かは分からず、組み敷くも隷属も、その手脚は入れ子近くになっていて、ではあの誘いには何の意味があったのか。 ■ 森敦さんは旧制一高を途中で辞めていた。 私は森さんのよき読者ではなかったので仔細は不分明だが、当時の旧制一高と言えば、今からはちょっと想像ができないくらいの知識層の原型である。絶対値ではなく社会から見た相対として、数として。 そこに地域性を加味してもいい。 放浪者・他所者として村を訪れても、即身仏・ミイラにされなかったの
冬の果て 2. ■ やっこが即身仏にされるという設定は、もちろん文学的創作である。 講に類した集まりの中で「おはぐろ」を施した「ばさま」の噂話として描かれていた。 作品が世間に知られるようになった後、この辺りの描写は様々に関係する周囲の人達の不満の種ともなったという。 それを踏まえたものか、サンデー毎日の昭和54年7月1日号で山本茂氏が「物語の女」と題して取材を行っていた。 今それは「森敦資料館」でWeb上に公開されている。 ■「やっこでも往生すれば立派に仏になる、ということをいいたかった」 前述山本茂氏の記事の中で、森敦さんはそのように関係者に言われたとされる。 親鸞の悪人正機説を思い出させるものだが、この辺りの信仰の襞には踏み込まないでおこう。 いっぽう、即身仏という死の世界の対比物として魅力的というよりも直裁には肉感的な寡婦の存在が「月山」の中では描かれていた。 処女ではなく、成熟し
冬の果て。 ■ 森敦さんの「月山」をぱらぱら読み返していた。 中に「行き倒れのやっこ」で作った即身仏の話が出てくる。 やっことは、乞食のことである。 山に冬が近づくとあらわれるのだ。 「ンだ。吹きの中の行き倒れだば、ツボケの大根みてえに生でいるもんださけの。肛門から前のものさかけて、グイと刃物でえぐって、こげだ(と、その太さを示すように輸をつくりながら、両手を拡げ)鉄鉤を突っ込んでのう。中のわた(腸)抜いて、燻すというもんだけ。のう、ばさま。わァは見たんでろ」 「そげだ料理をこの目で見たんでねえどもや。山の小屋からえれえ臭いがするもんだ。行ってみたば、仏の形に縛られたのが、宙吊りにされて燻されとったもんだけ」(森敦「月山」文春文庫版:62頁) ■ 即身仏とは、真言密教の世界である。 時には罪人が放免される代わりに仏となる道を選択する、またはさせられることもあったというが、この辺りの区分は今
場末の二階。 ■ 何時だったか古い友人と話していて、あいつが死んだということを聞いた。 あいつがか。 あいつだよ。 最後は自らであったようだが、その辺りの事情は知らない。 非常勤で身体を使う仕事に就いていたという。 嫁さんと子どもは。 随分前に離婚している。 ■ 混み合ったところにある店で知り合い、時々は隣合っていた。 すぐに議論をふっかけてくる癖があって、一歩も譲らない。私の方がすこし年上だったので、まあそんなものだろうと折れていた。 専門は音楽だったらしいのだが、確かにフリーの流れを汲むピアノである。繊細で難解で、口を開けて首を振る。アイラーばりと言えば分かりやすいが、音に少しだけ濁りがある。写真や文章にも持論があって、誰しもいないところではかなりの言われようだった。よくある話である。 当時はまだ高価なDTMの機材を揃えていたというが、それで何を作ったということは聞かなかった。 彼に結
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