本島がこの論文を発表したのは1997年(平成9年)である。広島平和研究所の雑誌「平和教育研究」VOL.24(1997年4月号)に発表したものだ。本島は1979年(昭和54年)から1995年(平成7年)の間長崎市長を務めているので、この論文は長崎市長を退いてからさほど時間を置かずに発表したことになる。 この論文は副題風に「原爆ドームの世界遺産化に思う」が附属している。広島の原爆ドームは、1996年(平成8年)ユネスコの世界遺産審査委員会で「世界遺産」登録が決まった。日本語Wikipedia「原爆ドーム」は、『このときアメリカ合衆国は、原爆ドームの登録に強く反対。調査報告書から、世界で初めて使用された核兵器との文字を削除させた。また、中華人民共和国も、日本の戦争への反省が足りないとして、棄権に回った。』としている。 <http://ja.wikipedia.org/wiki/原爆ドーム> また
本島等元長崎市長が死去 長崎新聞のインタビューで市長時代の記憶を語る本島氏=6月24日、長崎市内 昭和天皇の戦争責任発言で右翼から銃撃され、全国に論争を巻き起こした元長崎市長の本島等(もとしま・ひとし)氏が31日午後5時27分、肺炎のため、長崎市内で死去した。92歳。旧五島北魚目村(現在の新上五島町)出身のカトリック信徒。自宅は長崎市下西山町7の1。葬儀は密葬で執り行い、お別れ会を後日、長崎市内で開く。 長崎市長に初当選したのは1979年。市長3期目の88年12月、昭和天皇が重篤な状態にある中、定例市議会一般質問に答え「昭和天皇の戦争責任はあると思う」と発言し、全国から抗議や称賛が殺到。当時顧問を務めていた自民党県連などは発言の撤回を要求したが、本島氏は「(撤回は)政治家の死を意味する」として応じなかった。発言から1年余り後の90年1月、市役所前で右翼団体幹部に銃撃されて瀕死(ひんし)
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