2017年4月25日のブックマーク (2件)

  • 日本語が堪能な外国人は普段 何語で考えごとをするのか - 襟を立てた少年

    語が堪能な外国人は普段 何語で考え事をするのか 僕は仕事中にこんなことを思いついてしまった。 「人は言語を通じて世界を見ている。だとすれば、言語を複数持つ人は思考ベースを複数持つということになり得るのか?それとも彼らに取って言語はチャンネルのようなもので、その時々に応じて切り替えているだけなのか?」という仮説だった。 例えば僕の親しい同僚でイタリア人がいるのだけれど、日に5年以上住んでいて日語は何不自由なく使えるし、おまけにイタリア語と英語スペイン語を自由に操っている。そんな彼は普段何語で思考しているのか。 イタリア人だからイタリア語で思考する。のか? そんな短絡的に考えていいのだろうか。 彼は日に住んでいる。 だから基的に思考も言語も日語に引っ張られるのが自然だと思う。 具体的には「鈴木さんとみずほ銀行に行かなきゃ」ということを考えるとき、イタリア人の彼はわざわざ「And

    日本語が堪能な外国人は普段 何語で考えごとをするのか - 襟を立てた少年
    DavitRice
    DavitRice 2017/04/25
    わたし日本語が堪能な外国人だけど、家族やペットに関係する思考は英語、その他の人間関係や社会的な事項に関する思考は日本語で、英語の本を読んだりそれについて考える際には英語と日本語の思考が混ざる感じかな。
  • 「動物が苦痛を感じているとも、植物が苦痛を感じないとも、確実に言うことはできない」(倫理に関する事実判断と価値判断についての私見) - 道徳的動物日記

    togetter.com 上記のTogetterは私のツイートをセルフまとめしたものだが、この話題について、ブログでもちょっと書いてみたい。 動物を道徳的配慮の対象とする倫理学理論(や政治哲学などその他の規範理論)の多くは「ある存在は幸福や快楽などのポジティブな感情や感覚を経験することが可能である、ある存在は苦痛や不快などのネガティブな感情や感覚を経験することが可能である」とすれば「何らかの行為をしたり意思決定を行う際には、その存在が経験する幸福や苦痛に対して、何らかの配慮をするべきである」と主張している。それぞれの存在が経験する幸福や苦痛に対してどのように配慮するべきか、たとえば人間が経験できる幸福の質は動物が経験できる幸福の質よりも優れていると見なして人間の幸福を優先するべきか、といったことは理論や場合によって変わってくる。しかし、「人間の幸福は、それを経験しているのが"人間だから"優

    「動物が苦痛を感じているとも、植物が苦痛を感じないとも、確実に言うことはできない」(倫理に関する事実判断と価値判断についての私見) - 道徳的動物日記
    DavitRice
    DavitRice 2017/04/25
    セルクマ