ブックマーク / note.com/davitrice (23)

  • 続・緊急事態とわたし|デビット・ライス

    ↑ 先日の記事のつづきというか、繰り返し。 やはりというか、転職活動の情勢は緊急事態宣言が出た途端に目に見えて悪くなった。以前までならけっこう多くの会社を書類選考はパスして面接まで行ったりしていた会社がいくつかあったところだが、いまはどれだけ応募しても書類選考の段階で不合格になってしまう。実際のところはわからないが、求人の数自体や採用人数が露骨に絞られている気がするし、一方で応募者は反比例して多くなっているような気がする。 この緊急事態の下にいると、無職でいるということがどこにも属していなくてどこにも寄る辺がないということであるのが、身に沁みてわかる。この「どこにも属していなさ」は、現実的な問題であるのと同時に観念的な問題でもある。 たとえば、自分のような立場の人の意見がどこにも代表されていないという感覚がある。ネットを開いてみると、疲弊している医療現場の声は聞こえてくるし、経営危機や経営

    続・緊急事態とわたし|デビット・ライス
    DavitRice
    DavitRice 2020/04/17
  • 緊急事態とわたし|デビット・ライス

    なんかTwitterで「こんな非常事態だからこそ、後の世の人々が参照できる歴史的な記録として、市井の人々は日記や所感や随想を公開して残しておくべきだ」的な意見が流れてきて、「なるほど」と思ったので、自分の現在の状況に関する所感を残すことにした。 気が付いたら東京(と他のいくつかの都市)に緊急事態宣言が出てしまい、映画館が軒並み閉まることになった。他にも文化施設とか運動施設とか夜の飲み屋とか閉まるものはいくつかあるのだろうが、そこらへんは普段から行くことがないのでわたしには関係がない。図書館には緊急事態宣言の前日に予め行っておいて借りられるだけを借りておいた。映画館にも直前まで行くかどうか迷っていたし、『初恋』や『ジュディ 虹の彼方に』や『黒い司法』などの作品が気になってはいたのだが、1900円(バルト9の夕方割を利用するとしても1300円)払ってまで観たいほどの作品ではなかったのだ。ほん

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    DavitRice 2020/04/08
  • 文学から遠く離れて|デビット・ライス

    大学時代はいっぱい小説を読んでいたし、自分でもたくさん小説を書いていた。大学2年生のときには取得単位はゼロだったのだが、それは小説を読んだり書いたりすることに時間が取られすぎて授業や試験に出るヒマがなかったからである。(授業や試験に出ていなかっただけで、大学に行っていなかったわけではない。家にずっといると親に疑われたり怒られたりするから、文芸部の部室で作業をしていることも多かった。部室の閉まる夜の9時過ぎまで作業していることも多かったし、大学で授業が行われていない休日にも通っていたので、大学に滞在している時間は大半の学生よりも多かっただろう。) しかし、大学3年生になって真面目に授業に通うようになってからは、小説の代わりに新書や啓蒙書やいろんな学問分野の入門書や教科書を読むようになったし、自分で小説を書く時間も減っていった。いちおうは文学専攻であったので授業や卒論で扱う小説やそれに関係する

    文学から遠く離れて|デビット・ライス
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    DavitRice 2020/03/24
  • わたしが「自由」が苦手な理由|デビット・ライス

    心理学のを開くと、こんなことが書かれている場合がある。 「自由主義や保守主義などの政治的なイデオロギーを主張している人たちは、表向きには論理的に各イデオロギーの主張を検討した結果として納得のいったいずれかのイデオロギーを論理的に支持しているように見えるが、実際にはどのようなイデオロギーを支持するかは心理的・生得的な要因に左右されている。自由主義を支持する人は、自由主義が正しいから支持しているのではなく、その人が生得的に自由主義的な傾向を持っているからだ。保守主義を支持する人も、保守主義が正しいから支持しているのではなく、その人が生得的に保守主義的な傾向を持っているからである。」 たとえば、『社会はなぜ左と右にわかれるのか:対立を超えるための道徳心理学 』というを著しているジョナサン・ハイトは上記のような主張をしているなかでも代表的な論者だ(彼のTEDトーク動画はこちら)。わたしはハイト

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    DavitRice 2020/03/17
  • 文系大学生に身に付けてほしい7つの能力|デビット・ライス

    「学問」や「大学」に関するSNSの論調やネットの記事などでは「学問の面白さ」「勉強の楽しさ」ばかりが強調される傾向があるが、学問とは面白くないものである。すくなくとも、論文を書いたり研究をしたりすることは、大半の人にとっては面白くない。 特に卒論を書くことは面白くない。論文というものには新規性とか学問的意義とかが必要になるから、過去の膨大な文献とか資料とかを漁った挙句にそれらでまだ論じられていないテーマや論題をひねり出してこなければならないが、論じる価値のある物事なんでもうとっくに論じ尽くされているので、まだ論じられていないテーマや論題なんてほとんどの場合にはなんの価値もないものである。しかしそのテーマや論題の"学問的意義"を示さなければ論文として認められないので、卒論であってもそれを無理矢理に強弁しなければならない。そんなことをしているうちに「この論文にはテーマや意義があるんだ」と自分す

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    DavitRice 2020/03/16
  • わたしと文学部|デビット・ライス

    いまから思えば後悔するところがないのではないのだが、大学に入学するとき、進路や専攻をかなり適当に決めてしまった。 ほかの記事でも触れたと思うが、東京の大学に進学することを親が許してくれなかったので受験勉強全般に対する意欲が下がっていたのだ。「関西の大学から、勉強しなくても点数が取れる英語と現代文だけでイケる学部をまず探して、そのなかでいちばん偏差値の高いところにしよう」と考えた、その結果、立命館に入学することにした。当時の立命館には英語200点、英語リスニング100点、現代文100点という点数配分の試験方式があって、これが私にとってはピッタリだった。 この試験方式で進学できるのは文学部の英米文学専攻と国際関係学部のどちらか二択である。国際関係学部の方が偏差値が高いのでそちらに進学しようかなとも考えたが、私の両親は宗教学者に文化人類学者と根っからの人文系なアカデミシャンであり、息子も人文系を

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    DavitRice 2020/03/10
  • お酒とわたし|デビット・ライス

    自分の飲酒量について改めてふりかえってみると、人生がうまくいっていない時期には飲酒量が増えてしまうし、多少はマシな時期には飲酒量が減る。人と会いに行ったり会社などの集団の飲み会に参加する機会は年々減っているとはいえ、わたしは一人で酒を飲む習慣を身に付けてしまっている。むしろ人と会わない時期であればあるほど、飲酒量が増えてしまう。これは不安をまぎらわせるためでもあるし、孤独をまぎらわせるためでもある。 そもそもの問題点が、実家にいた頃から「晩酌」の習慣を身に付けてしまっていたことだ。わたしの家族の事は西洋風のものが大半であり、そして家族のみんながワインを飲む習慣を身に付けていた。パンも出されるしおかずの味付けもワインに合う。というか、むしろワインと一緒にべることを前提とした味付けであるフシがあった。たまに中華や和風の事が出されるときがあったが、その時はビールを出してもらっていた。そうい

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    DavitRice 2020/03/07
  • 「受験」に対するわたしの様々な思い|デビット・ライス

    ↑ 大学受験についてははてなブログの方でも何回か書いてきたし、今回書くことも上記の記事などで書いてきたものと被る部分がある。しかし、朝起きて「今日は何を書こうかなあ」と頭をめぐらしていると、ついつい受験について書きたくなる。それくらい受験というものはわたしの人生や価値観に影響を及ぼしているし、わたしは受験というものが嫌いなのである。 東京の街を歩いていてうんざりさせられることの一つが(東京の街にはわたしをうんざりさせることがいっぱいあるのだが)、予備校の多さだ。京都にも予備校はあったかもしれないが、東京のすくなくとも都心部にはほんとうに予備校が多い。それに、小中学生向けの塾も多い。いま調べたところ人口一人あたりの学習塾の数は東京よりも京都の方が多いらしいのだが、それはそれとして絶対数としては東京の方が塾が多い。 予備校や塾が入っている建物は、玄関口や看板などで必ず「進学実績」を掲示している

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    DavitRice 2020/03/03
  • 何が好きかより何が嫌いかを語ろう|デビット・ライス

    『魁!クロマティ高校』という漫画のなかに、「プータン」という芸名で活動する着ぐるみを被った芸人のキャラクターが出てくる。いま手元に単行がないのでうろ覚えになってしまうが、こんなエピソードがあった。プータンがテレビ番組のグルメレポートをするのだが、なにをべてもグルメレポートらしいことを言わずに、「普通」とか「うまい」と一言呟くだけで済ませてしまうのだ。 なんてことのないネタであるが、このエピソードは「感想」というものの質を突いている。美味しいべ物をべたときにグルメレポーターは大げさに騒いだり形容詞や比喩を使って美味しさを表現しようとしたりするが(その形容詞や比喩も大概はオリジナリティのない使い回しである)、実際には人は美味しいものをべたところでさほど感動することはない。頭や心の中に浮かぶ感想は「うまい」とか「思っていたよりも普通だな」とか「大して美味しくもないな」とかいうものが大

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    DavitRice 2020/03/02
  • 読まれやすくわかりやすい文章を書くことについて|デビット・ライス

    SNSでつぶやいたりブログに日記を書いたりするということの特徴は、その文章が個人的なものであるとともに他人に共有するものでもあることだ。鍵アカでつぶやいたり非公開の日記に書いたりするのでなければ、必然的に自分以外の他人にもその文章が見られることになるし、場合によってはシェアされて拡散する。 このことは良し悪しだ。誰もが自分の思ったことを書いたり自分の意見を発信できることは、基的には良いことだろう。また、自分の文章を他人に読んでもらうことの充実感や拡散されることの爽快感が、文章を書き続けるモチベーションとなる。しかし、「他人の目」を常に意識しながら文章を書くことは、「自分の言葉」を失うことにつながりかねない。やがては自分の内面にある思いや考えすらも他人の目に振り回されることになってしまう。 そもそも、文章を書くということは再構築の作業ではある。自分だけに見せるための文章であっても、自分の頭

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    DavitRice 2020/02/29
  • 東京を地続きで歩く|デビット・ライス

    東京で生活を始めたところで金がないからできることは限られている。そのため、休日や仕事がない期間でも街を歩くことくらいしかできることがない。幸いにして歩くことは金がかからないからだ。 世の中には歩くことが嫌いな人が意外といるもので、特に東京ではそんな人の数が多い。「田舎の人は自動車ばかり使うが都会の人はよく歩く」と言われることがあるが、嘘だと思う。みんな電車ばっかり使うからだ。それに東京の人は金にならないところに労力をかけることを嫌がるし、「効率が悪い」物事を嫌がるし、みっともない真似をしたりみすぼらしい思いをしたりすることを嫌がる。(ただし、わたしが東京に引っ越したタイミングとわたしが初めてまともに就職して社会人になったタイミングは全く同じだから、わたしが常々「東京人と京都人との違い」や「関東人と関西人との違い」と認識しているものは、実は「社会人と学生との違い」であったり「会社員とフリータ

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    DavitRice 2020/02/28
  • SEOの哀しみ|デビット・ライス

    Twitterでどこかのカリスマブロガーが、現在はコロナウィルスに関する記事を書くことがブロガーにとってチャンスであると発信して、叩かれていた。 叩かれて当たり前の発言ではあるが、SEOを意識したアフィリエイトブログを書いてそれで儲けようと思っている人なら、当然こういう発想になるだろうという気はする。おそらく、既にそういうブログ記事は大量に生産されているだろう。また、 YouTuberたちを見てみても、やはりコロナウィルスに関するなんらかの動画を撮影して投稿して、それで再生数やチャンネル登録者数を稼ごうとしているようだ(現在はコロナウィルスに関する動画は広告収入が入らなくなる措置をされているようではあるが)。 今回のウィルス騒動で再注目されている映画『コンテイジョン』では、ジュード・ロウが演じるデマをバラまくジャーナリストが視聴者の憎しみを買う悪役として描かれていた。ウィルス騒動に限らず災

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    DavitRice 2020/02/27
  • 京都を歩き尽くすこと|デビット・ライス

    京都といえば「学生の街」というイメージが強いが、言うまでもなく、京都には学生ではない人間も住んでいる。京都に生まれて、ずっと京都に暮らしている人間もいるものだ。そして、京都に生まれて暮らしている若者のなかには京都の大学に行く人も多い。そこで、京都以外の他の地方出身の友人を作ることもあるものだ。 このことにはある種の寂しさがつきまとう。というのも、他の地方出身の友人の大半は、大学を卒業したらもう京都からはいなくなるからだ。京都では東京や大阪のようには企業の数が多くないから、友人たちの多くは卒業したら京都を出て他の都市にある企業に就職することになる(私のまわりでは大阪が多かった)。それか、各々の地元に戻って地方公務員になったりする。多くの人にとって京都はあくまでも学生時代にしか住まない街であり、だからこそ「学生の街」というイメージがついているのだろう。 しかし、繰り返すが、京都にはそこで生れ育

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    DavitRice 2020/02/26
  • 「有能さ」についてわたしが発見したこと|デビット・ライス

    これは最近になって私が発見したことなのだが、大人という存在はその人の持っている「能力」で外部から自分の価値を計られてしまうものである。そして、これも私が発見したことなのだが、多くの場合に「給料」や「報酬」にはその人の持っている能力が関わってくる。お金を稼げるようになるためには、実は、なにかの「能力」が必要とされるのだ。さらに、「能力」はお金のことだけでなく人間関係にも関わってくるし、場合によっては人のアイデンティティにも影響を与えることがある。これも30歳を過ぎた私ならではの発見である。 就職をするためには自分にどのような能力があってどんなことができるかを会社に対して示さなければならないし、給料だって能力に左右される。雇用されていないフリーランスだって仕事を受注するためには顧客たちに能力を示さなければいけないことについては変わりない。アカデミアや芸術の世界なら、一般的な仕事の世界以上に実

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    DavitRice 2020/02/25
  • 仕事と、それに対する私の距離感|デビット・ライス

    "仕事"ということについて振りかえって思いを馳せるときにいつもゾッとさせられるのは、それが私の人生においていかに軽い扱いになっているか、ということだ。 「軽い扱い」といっても、私が意識的に「仕事なんてくだらないことを自分はするべきではない。なにか他の方法で一発当てるなり金持ちの女の人のヒモになるなり生活保護に頼るなりして、仕事をやらずに生きていくべきだ」と考えているわけではない。(…正直に言うと学生時代にはそういうことを考えていた時期もあったが、大半の不真面目な学生には一度はこういうことを考える時期があるものだろう。) ここでいう「軽い扱い」とは、私の記憶における比重についての話だ。どこかの会社にてフルタイムで働くということは、その間は、人生の大半の時間がそこの仕事で占められるということである。基的には週に五日間は会社に行くことになるわけだし、出勤の準備や退勤後の疲弊などを考えると仕事

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    DavitRice 2020/02/23
  • 三流国家の首都に暮らすことについて|デビット・ライス

    私が京都から東京に引っ越してきたのは、2017年の10月だ。つい最近に引っ越してきたという感覚が未だに消えないが、実際にはすでに2年と数ヶ月経過している。引っ越したのは28歳の頃で、それまでの28年間はずっと京都で生活してきた。 引っ越したきっかけは就職である。24歳の時に修士を卒業した私はそのまましばらく京都でフリーターをしていたのだが、意を決してフルタイムの仕事を目指したときに、東京に移ることにしたのである。京都を出たことにはいくつかの理由がある。まず、実家で家族と暮らすことがあまりに気詰まりになっていて、フルタイムで働くことで家賃が支払えるようになるなら家を出たいということがあった。また、京都という街自体にもあまりに長い間住んでおり、行けるところにはどこにも行き尽くしていたので、閉塞感を感じていた。 移る先を東京に選んだ理由もいくつか存在するが、まずは「仕事の選択肢が多い」という現実

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    DavitRice 2020/02/20
  • 「学問ごっこ」と、それに対するわたしの反感|デビット・ライス

    これまでの自分の生き方や考え方について振り返ってみると、前々から薄々気づいていたことではあるが、「何が好きか」よりも「何が嫌いか」ということに自分が振り回されてきたことを再認識してしまう。ネガティブな外的事象に自分の人生や人格を決定させてしまうことはどう考えても自分にとって良いことではないし、幸福ではなく不幸につながることだとは思う。しかし、何しろ昔から様々なものやことが嫌いで仕方がなかったし、今さらそれを更生できる見込みもないだろう。だから、「嫌いなものは嫌い」と割り切るしかない。そして、それを溜め込んでいるよりかは外に向かって吐き出した方が多少なマシというものだろう。 大学生のとき、私は周囲にいた一部の学生たちの言動のなかにある種の特徴や傾向を見出すようになり、それが段々と苦手になっていった。その特徴や傾向を、ここでは「学問ごっこ」と呼ぶことにしよう。 私が「学問ごっこ」を感じる言動の

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    DavitRice 2020/02/19
  • 「男性としての加害性を自覚した男性による女性に対する謝罪」についての雑感|デビット・ライス

    男性がフェミニズムの考え方に触れたりジェンダー論について書かれたを読んだりなどしたときの反応には、いくつかの典型がある。 典型的なものの一つが、「フェミニズムなんて認められない」「ジェンダー論なんてうそっぱちだ」といった全否定の反応だ。これに関しては、フェミニズムやジェンダー論の内容について具体的に触れてそれについて考えた末に全否定になる場合もあり得るだろうが、大半の場合には、全否定する人はフェミニズムやジェンダー論の上っ面だけにしか触れていなかったり全く内容を理解できなかったりするのにイメージだけで判断している。こういう反応はフェミニズムに限らずマルクス主義とかエコロジー主義とかいろんな主義や理論に対してよくなされる反応ではあるのだが、このような反応がなされることは残念なことであるには違いない。 典型的な反応の二つ目は、フェミニズムやジェンダー論が「女らしさ」そして「男らしさ」を否定し

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    DavitRice 2020/02/18
  • フェミニズム"理論"への向き合い方|デビット・ライス

    (前回の記事と同じく、この記事も最初は「わたしとフェミニズム」だとか「わたしの、フェミニズムへの向き合い方」だとかの題名でもっと個人的・私的な内容を書くつもりだったのだが、前置きのつもりで書き始めた「一般論」の部分が長くなり過ぎてしまったので分割することにした。) わたしがフェミニズムやジェンダー論の考え方に最初に触れたのは中学生の頃で、斎藤美奈子という書評家のがきっかけだった。彼女の『趣味読書。』というが新聞で取り上げられていたのを目にして屋で購入して、書評というもの自体にそれまでほとんど触れたことがなかったから面白く読めて、彼女の他の著作もいくつか手に取った。そのなかには、フェミニズム的な文学批評として有名な『妊娠小説』や、同じくフェミニズム的なサブカル批評である『紅一点論』というがあった。また、わたしに特に強い印象を与えたのが『物は言いよう』というだ。これは前述した二つよ

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    DavitRice 2020/02/18
  • 村上春樹の個人主義と、その参考にならなさ|デビット・ライス

    (このエッセイは最初は「村上春樹とわたし」という題名で書いていたが途中で方針転換した。そのため、序盤ではわたしが村上春樹の作品に出会ってきた経緯を書いているが、途中からは別の話題に切り替えて書いている。) はじめに村上春樹のに触れたのは中学生のときで、『うずまきのみつけかた』というエッセイだ。わたしは小学生の頃は青い鳥文庫などの児童向けミステリーを読んでいて、中学に上がってからは新潮文庫などで大人向けのミステリー小説も読み始めていたのだが、ある段階で「ミステリー小説なんてどれもこれも同じだ」と気付いて嫌気が差してしまった。しかし、当時はミステリーやSFなどのジャンル小説ではない小説の存在によく気付いておらず、何を選択すればいいのかもわからなかったので、しばらくを読んでいない時期が続いていたのだ。そんな時期に、見かねた父親が新潮文庫の『うずまきのみつけかた』を買ってくれたのだ。ただし

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    DavitRice 2020/02/17