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2011年5月12日のブックマーク (3件)

  • mediologic - 日本における「メディアリテラシー」でいう「メディア」は超狭義だったりすることもあるので要注意。

    メディアリテラシーで扱う「メディア」とは何か – ガ島通信. 藤代くんのブログ記事に呼応して。 実は日における「メディア・リテラシー」は大学などでも「新聞学」や「ジャーナリズム学」と呼ばれていた講義から出てきているものが多い。時期的には90年代の半ばから、「メディアを批判的に読み解く力」としてこの語が与えられてきた。もう少し詳しく言えば「メディアが(報道する情報)を批判的に読み解く力」であり、より詳しく言えば、「(マス)メディアが(報道する情報)を批判的に読み解く力」となる。 面白いことにこれらの文脈で「メディア・リテラシー」という言葉をつかっている人たちは、「マスメディアが報道する情報は真実でない」という立場になっていることが多い。もちろん各報道機関が報道するときにはそれぞれの解釈・編集に基づいているので、それをわかったうえで情報を読み取ろう、というのがこの場合の「メディア・リテラシー

    Domino-R
    Domino-R 2011/05/12
    そういえばよく外国の「メディアリテラシ教育」の紹介で、子供が自分で情報を発信する側になってみる、ってのを見かけるな。情報発信には不可避的に送り手の取捨選択が入り込むってことを教えるのか。
  • 考え方は違うが、話はできそうな人 - モジログ

    ネットを見ていると、政治や社会に関して、いろいろな意見を目にする。 そのなかで、「この人は私の考え方と違うが、話はできそうだ」という人がいる。 反対に、「この人は私の考え方と近いが、話すのはむずかしそうだ」という人もいる。 話ができそうか、むずかしそうかの判断の分かれ目は、自説の主張にあたって、反対意見の持ち主を罵倒したり、個人攻撃をしているかどうかだ。 話ができそうな人は、個人への攻撃ではなく、内容についての議論をする。こういうものは、いくら自分と考え方が違っても、読んでいて苦にならない。むしろ、自分とは異なる視点がおもしろいと感じたりする。 個人攻撃をせず、内容の議論に集中することは、むしろ説得力を増すと思う。逆に、個人攻撃をすることは、説得力を下げてしまう。 個人攻撃する人というのは、ほんとうは自分の考えに自信がないのではないか。説得力のある議論という正攻法が通用しないと思うからこそ

    Domino-R
    Domino-R 2011/05/12
    なるほど。でも個人(人格)攻撃しちゃう人はその態度の無意味さを言えばいいのであって、そういう態度をとってしまう理由の分析やまして批判など必要ない。それは人格攻撃と変わらない。
  • 池田信夫「原発のリスクよりリターンのほうが大きいなら、原発が市場で選ばれるだろう」 - モジログ

    アゴラ : 池田信夫 - 問題は「脱原発」ではなく「電力の全面自由化」である(2011年04月12日15:39) http://agora-web.jp/archives/1305863.html <逆にいうと、電気事業法で認めている地域独占が反競争的な規制だということである。独禁法の基準で考えると、各地域の電力会社は数社に分割して競争させたほうがよい。企業分割は独禁法上もっとも強い規制であり、軽々に発動すべきではないが、それによって電力を安定して低コストで供給できるなら、考慮に値する。これまで経産省の行なってきた電力自由化が失敗したのも、電力会社の経営形態に手をつけなかったからだ>。 <発電方式として何を選ぶかは、株式市場で決めればよい。原発のリスクよりリターンのほうが大きいという電力会社の主張が正しければ、原発が市場で選ばれるだろう。再生可能エネルギーが原発より低コストだという反原発派

    Domino-R
    Domino-R 2011/05/12
    「神学論争」なる語で何を意図したのかわからないが、市場における競争/決定が常に誰にも最善であるという思い込みの根拠の無さこそ悪い意味で神学的態度。