1945年11月1日、米軍は南九州への上陸を計画し、日本軍も応戦の準備をしていた――。実際には8月に降伏し、本土決戦は現実とならずにすんだが、各地の遺構は「一億総特攻」も辞さない当時の戦いのかたちを物語る。史実を語り継ごうという動きもある。 「新兵ばかり、無知の勇」 おだやかな海に緑の小島が浮かぶ。鹿児島県志布志市の港から約4キロ。枇榔(びろう)島には、その名の由来となったビロウ樹など亜熱帯性の植物が茂る。 太平洋戦争末期、米軍は志布志湾、吹上浜(鹿児島県)、宮崎海岸(宮崎県)の3カ所から上陸する「オリンピック作戦」を計画。日本も本土決戦を覚悟し、志布志湾は主戦場に、枇榔島は最前線になると考えられたという。 宮崎県えびの市出身の中原精一さん(87)=東京都=は45年7月に召集され、島に配属された。 当時の「肉弾訓練」を振り返った。 爆弾に見立てた木箱を抱え、草むらで息を潜める。上官の合図で