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ブックマーク / www.aozora.gr.jp (7)

  • 荻原雲來訳註 法句經

    法句の語は大別して二種の義に解釋せらる、一は法は教の義にして法句とは釋尊の教の文句なり、又他の一は法は體を詮し、一切萬象の終極の體即ち涅槃の義、而して句の原語は元來足跡の義にして、轉じて道或は句の義となりしものなれば、その原の意味にて道の義と解すれば法句は涅槃への道とも譯せらる、涅槃への道は換言せば覺らす教の意味なり、今は何れにても可なれども、古來漢譯されて人口に膾炙せるまゝ法句と稱へたり。 法句の内容は各章の題號にても察せらるゝが如く、佛教の立脚地より日常道徳の規準を教へたるもの、社會は生活苦、病苦、老苦、相愛別離の苦、仇敵會合の苦、乃至は死苦に惱まされ、さいなまる、如何にして是等の苦惱を永久に脱し得べきか、如何にして絶待安穩なる涅槃に達し得べきか、換言せば、世人は事物の眞相に通ぜず、妄念、謬見、貪愛、慢等の心の病の爲に苦しめられ、不明にして執著し、違背し、日夜擾惱を増す、智慧の眼を開

    DrFaust
    DrFaust 2016/10/07
    ダンマパダ, 真理の言葉
  • 葉山嘉樹 海に生くる人々

    一 室蘭港(むろらんこう)が奥深く[#「奥深く」は筑摩版では「奥深く広く」]入り込んだ、その太平洋への湾口(わんこう)に、大黒島(だいこくとう)が栓(せん)をしている。雪は、北海道の全土をおおうて地面から、雲までの厚さで横に降りまくった。 汽船万寿丸(まんじゅまる)は、その腹の中へ三千トンの石炭を詰め込んで、風雪の中を横浜へと進んだ。船は今大黒島をかわろうとしている。その島のかなたには大きな浪(なみ)が打っている。万寿丸はデッキまで沈んだその船体を、太平洋の怒濤(どとう)の中へこわごわのぞけて見た。そして思い切って、乗り出したのであった。彼女がその臨月のからだで走れる限りの速力が、ブリッジからエンジンへ命じられた。 冬期における北海航路の天候は、いつでも非常に険悪であった。安全な航海、愉快な航海は冬期においては北部海岸では不可能なことであった。 万寿丸甲板部(かんぱんぶ)の水夫たちは、デッ

  • 幸田露伴 道教に就いて

    道教は支那に於て儒教と佛教と共に鼎立の勢を爲してゐる一大教系であり、其分派も少からず、又其教義も少しづゝの異を有して居り、草率に其の如何なるものであるかを説き、且つ之を評論することは、もとより不可能の事に屬する。儒教は歴史的にも教義的にも、むしろ平明なものであり、且又世間教に屬するもので、假令其の淵源たる時代即ち殷周の頃には數上帝を稱し、神鬼に事ふることを重んじたことを認めしむるとは云へ、他の所謂宗教なるものの、超世間的世界を有し、超人的教權者の存在を高調して、そしてそれに因依して教威を立てゝ世に臨むのとは大に異なつてゐる。そこで支那を掩葢するところの宗教らしい宗教は、佛教と道教とで、其他には清眞教等の微勢力のものが存するのみである。道教は支那に起り、支那に發達し、僅に朝鮮日に多少の影響を貽(おく)つたに過ぎないで今に至り、しかも其教の精神からして世界に衝動を與へたといふほどの事も無くて

  • 文部省 あたらしい憲法のはなし

    みなさん、あたらしい憲法ができました。そうして昭和二十二年五月三日から、私たち日國民は、この憲法を守ってゆくことになりました。このあたらしい憲法をこしらえるために、たくさんの人々が、たいへん苦心をなさいました。ところでみなさんは、憲法というものはどんなものかごぞんじですか。じぶんの身にかゝわりのないことのようにおもっている人はないでしょうか。もしそうならば、それは大きなまちがいです。 國の仕事は、一日も休むことはできません。また、國を治めてゆく仕事のやりかたは、はっきりときめておかなければなりません。そのためには、いろ/\規則がいるのです。この規則はたくさんありますが、そのうちで、いちばん大事な規則が憲法です。 國をどういうふうに治め、國の仕事をどういうふうにやってゆくかということをきめた、いちばん根になっている規則が憲法です。もしみなさんの家の柱がなくなったとしたらどうでしょう。家は

  • 桑原隲藏 大秦景教流行中國碑に就いて

    DrFaust
    DrFaust 2012/12/30
    景教=キリスト教の一宗派。空海。
  • 大杉栄 奴隷根性論

    一 斬り殺されるか、焼き殺されるか、あるいはまたい殺されるか、いずれにしても必ずその身を失うべき筈の捕虜が、生命だけは助けられて苦役につかせられる。一言にして言えば、これが原始時代における奴隷の起源のもっとも重要なるものである。 かつては敵を捕えればすぐさまその肉をらった赤色人種も、後にはしばらくこれを生かして置いて、部落中寄ってたかって、てんでに小さな炬火をもって火炙(ひあぶり)にしたり、あるいは手足の指を一切り放ったり、あるいは灼熱した鉄の棒をもって焼き焦したり、あるいは小刀をもって切り刻んだりして、その残忍な復讐の快楽を貪った。 けれどもやがて農業の発達は、まだ多少人の風の残っていた、蛮人のこの快楽を奪ってしまった。そして捕虜は駄獣として農業の苦役に使われた。 また等しくこの農業の発達とともに、土地私有の制度が起った。そしてこのこともまた、奴隷の起源の一大理由として数えら

  • 徳冨蘆花 謀叛論(草稿)

    僕は武蔵野の片隅に住んでいる。東京へ出るたびに、青山方角へ往(ゆ)くとすれば、必ず世田ヶ谷を通る。僕の家から約一里程行くと、街道の南手に赤松のばらばらと生えたところが見える。これは豪徳寺――井伊掃部頭直弼(いいかもんのかみなおすけ)の墓で名高い寺である。豪徳寺から少し行くと、谷の向うに杉や松の茂った丘が見える。吉田松陰の墓および松陰神社はその丘の上にある。井伊と吉田、五十年前には互(たがい)に倶不戴天(ぐふたいてん)の仇敵で、安政の大獄(たいごく)に井伊が吉田の首を斬れば、桜田の雪を紅に染めて、井伊が浪士に殺される。斬りつ斬られつした両人も、死は一切の恩怨(おんえん)を消してしまって谷一重(ひとえ)のさし向い、安らかに眠っている。今日の我らが人情の眼から見れば、松陰はもとより醇乎(じゅんこ)として醇なる志士の典型、井伊も幕末の重荷を背負って立った剛骨(ごうこつ)の好男児、朝に立ち野に分れて

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