既存のパターンを繰り返す創作に意味はあるのか? - 魔王14歳の幸福な電波を読んで思ったこと。 物語を野球の試合に喩えて、「一回性」というキーワードでその価値を評価するというのは面白い試みだと思う。ただ、即興性の高い演劇とか口承文芸とか、そういったものならスポーツのアナロジーは成り立つが、記録され、反復継続して受容される事を前提として創作される物語にはあてはまらないのではないだろうか。もし、そのような物語も含めてスポーツと類比的に考えるなら、現に行われている試合にではなく、過去の試合の記録映像に喩えるべきだろう。いかなる試合の記録映像も他の試合の記録映像とはどこか違っているので、その点では「一回性」を有すると言えないことはないが、それは元記事で言われているような「一回性」とは異なるように思われる。同様に、創作の現場を離れて世に出た作品にも同程度の「一回性」しかなく、それをもって物語の価値だ