家族に関するErrorrepのブックマーク (119)

  • 私の母は狂人だった。私が母に母らしい親しみを最後に感じたのはいつだっ..

    私の母は狂人だった。私が母に母らしい親しみを最後に感じたのはいつだったか。 この人が母親であることが嫌だなと思ったのは、中学校の三者面談の時に、 私が担任に褒められるとみるや否や、 「うちの子は親の敷いたレールの上をただ走ってるだけですから」 と言い放った日のことだ。 私も担任の先生も目を丸くして驚いた。 思えば中学くらいから母はおかしかった。 きっとその前からおかしかったのだろうが、中学くらいからはっきり「この人はおかしい人だ」と思うようになった。 私が少し学校のことで愚痴を言えば、学校にクレームを入れた。 私が「学校の先生には電話しないで。家で文句言ってるだけだから」と言っても、 学校にクレームの電話をかけた。 困った私は次の年に担任になった先生に 「母は私の言ったちょっとしたことをわざわざ学校に電話をするところがあるから、 もし母が電話をかけてきたら話だけ聞いて、あとは無視して、私に

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  • うちの母はボケちゃってて、もう私のことも覚えてなくて この人の中にもう..

    うちの母はボケちゃってて、もう私のことも覚えてなくて この人の中にもう自分がいないっていうのがすごく不思議に思う 普段はいろいろ大変なことが多くて母にイライラして邪険にしちゃうんだけど 今私は母と同じ職場で仕事をしてて、同じ職場で働いているからか あの時、まだ元気で自分を持ってた母が 日々どんなことを考えて生きていたのかを聞けたら面白なって時たま思うし 私のことを気にしてくれていた母がとても恋しい

    うちの母はボケちゃってて、もう私のことも覚えてなくて この人の中にもう..
  • 父親が死んだ | アラサー独身男の犬日記

    きょう、実の父親が死んだと、地元の警察署から電話があった。 近所の人が訪問しても応答がなかったため、警察と消防が中に入ったところ、自宅の床に倒れていたそうだ。68歳だった。祖父は90歳過ぎまで生きたから、それくらいまで生きるのだろうと勝手に思っていた。死んだといわれても実感に乏しい。 命の灯火が消える瞬間、何を思ったのだろう。そんなことを考えてしまう。きっと脳裏に浮かんだのは私の顔だったのではないだろうか。関係性がよくなくて、私は近年ずっと父に会うことを避けていた。春先に来た「会って話したい」というLINEにもあいまいな返事をした。8月には「ステーキでもどうだ」と連絡が来たけど、それも無視した。 今さらステーキにつられるわけもないのに、その発想がいじらしい。ステーキくらい付き合ってやればよかった。 後悔はしないと思っていたのに、いざこの日が来ると胸が痛い。 □ 私は、父が35歳のときの子ど

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  • 親子げんかをして絶縁状態になった父が認知症に。介護と看取りを経て、今僕が思うこと|tayorini by LIFULL介護

    親子げんかをして絶縁状態になった父が認知症に。介護と看取りを経て、今僕が思うこと #親の介護 公開日 | 2024/10/03 更新日 | 2024/10/03 親子仲が良くない場合に親の「介護」とどう向き合っていくかは、難しい問題です。 認知症のお父さんを介護し看取った経験を持つライターの安藤昌教さんは、お父さんとけんかをして絶縁状態のまま介護に関わることになったそう。複雑な思いを抱えながら介護に向き合い、正解のない「家族との関わり方」について考え続けていたといいます。 今度は新たにお母さんの介護が始まろうとしているという安藤さんに、お父さんの介護を通じて感じたことを振り返りながら、これから介護に関わる人に伝えたいことについてつづっていただきました。 安藤昌教(あんどうまさのり)といいます。1975年に愛知県で生まれて、高校を卒業するまで愛知に住んでいました。当時は自転車のことを方言で「

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  • 家族が障害者になった

    タイトル通り。 どうしたらいいんだ。 仕事が原因で配偶者がになった。 子ども2人いて、べさせて行かなきゃいけない。 見守ってみたり、話し合ったりしたけど、一向に良くならないまま1年半がすぎて精神障害2級になったそうだ。 私にできることといえば、仕事してお金稼いで子どもたちと配偶者を養うことだと思ってがむしゃらに働いた。 朝から毎日23時ごろまで猛烈に働いた。朝の限られた時間帯で子どもたちの面倒も見てる。夕飯作るのだけは配偶者にお願いした。それ以外の家事育児全部こなした。 そしたら昇進した。2度も。 年収も、以前より少し多くもらえるようになった。 でもやっぱり3人養うには私の稼ぎじゃ心許ない。 がむしゃらに頑張ってきたけど、今度は義母に「ほんとはあんたに言ってやりたいことがたくさんある!」「(仕事ばっかりして)子どもの世話もしないのにいつも子ども達にキツイことばっかり言って」 と家族の前

    家族が障害者になった
  • 兄の奥さんが嫌いだ

    もうずっと前から思ってて、それでもあまり言うべきではないと思ってたから今まではっきり言わなかったんだけど、 自分は兄の奥さんが嫌いだ 当に嫌いだ とにかく合わない 同性に対して嫌いって思ったことはあまりなかったんだけど、とにかくこの人だけは当に苦手だ ちょっと苦手なタイプの人でも、ここは好きだな、とかこういう所は好感持てるな、って気持ちになることはあるかもしれない でもこの人に関してはそれが全くなくて、接するたびに「面倒くさい女の人だな」という薄暗い気持ちになる 私だって仲良くしたいんだけど、どうしても苦手だから難しい 私には兄が3人いて、その奥さんは一番上の兄の奥さんになる 苦手になったきっかけは沢山あるんだけど 特に嫌だったのは冠婚葬祭のときだ 2番目の兄の結婚式の際、親戚用の席で号泣していたのがまず嫌だった 新郎新婦のキスのときにはわざとらしくキャーッ!と小声で喚いていた 正直恥

    兄の奥さんが嫌いだ
  • 高卒のはずの親父が実は旧帝を中退していた。

    どこ大かは身バレが怖いのでぼかしておく。 男手ひとつで育ててくれた父親は、地元のバカ高を出た後高卒枠で今の職場に入ったとずっと言っていた。 そこまで家計に余裕があるわけではなく、質素倹約に勤める日々。ボロアパートで二人暮らしの生活だった。親戚付き合いは一切なく、親戚の話をしようとすると不機嫌になるため、俺は祖父母に会ったことすらない。幼少期は片親でそれなりに寂しい思いもしたが、それでも大学まで学校にも通えていたし部活もできていたので、父との暮らしに大きな不満はなかった。 父はベビースモーカーで趣味はパチンコと競馬だ。普通のどこにでもいる、いや普通よりは若干だらしないオヤジだ。俺が高校に受かった時も、大学に受かった時も、俺の息子とは思えねぇくらい賢いなと素で驚いていたので、この事実を知った時には心底驚いた。 自分は高校、大学と公立を出て、今年から就職。 家を出る直前の3月に、この事実をとある

    高卒のはずの親父が実は旧帝を中退していた。
  • 今思い返すと、母が亡くなるまで、年単位で症状は悪化してたなって 正常な..

    今思い返すと、母が亡くなるまで、年単位で症状は悪化してたなって 正常な時間は少しずつ減っていってたなって とくに当に最後のほうなんて いつ、当の笑顔を見せてくれたんだろう 常に敵意むき出しの表情、常に怒りを浮かべてた印象。 実際はもうちょっとましだったと思うけど… それでも、私に対してはたまに。ごくたまにだけどいつものお母さんの瞬間があって 「やっぱり私の娘だね」とかいって嬉しそうな顔してくれたりして 他のいろんな顔を忘れても、 私に向けてくれたその優しい顔は思い出せる。 だけどもっと多く浮かぶのはやっぱり怖い顔。 憎しみを浮かべた顔。 そんな顔ばっかりさせて、守れなくて、何もできなくて、 後悔することすらおこがましいと思える。 今さら、ごめんなさいなんていえない。 なんて親不孝な娘だったんだろうと もっといい娘、孝行娘がそばにいればお母さんはまだ生きていたんじゃないかなって 一度考え

    今思い返すと、母が亡くなるまで、年単位で症状は悪化してたなって 正常な..
  • 義母が子供に使う保湿剤にウンコを入れてた

    増田には生後5ヶ月の子供がいる いつもお風呂上がりにベビーローションを使うのだがある時を境に顔や身体中に赤い斑点ができ、荒れに荒れて子供も痛くて毎日のように大泣き 皮膚科に行ってもなかなか治らなかったので保湿剤が原因なのかなと思って出してみたらものすごい便臭と謎の黄ばみ 増田料理や他の家事で忙しかったこともあって旦那に保湿剤を塗るのを任せていたので気づけず、旦那に問い詰めたところ、元々こういう色のものだったと思っていたらしく、臭いも持病の蓄膿症で気づけなかったと、ふざけんな で、過程は省くけど旦那にもアリバイがあって結局義母がウンコを入れていたことが分かりました 理由は「子供が可愛くなかったから」だって 結婚前から一悶着はあったけど、まさかそんなことするとは想像できなかった もちろん絶縁だし、見抜けなかった旦那も、そしてこんな奴と結婚してしまった私も死ぬほど情けなかった 子供に対してはこ

    義母が子供に使う保湿剤にウンコを入れてた
  • 大変だったけどもっと大変が待ってるかもの話

    どこにも吐き出せないから勢いで書かせてください 突然両親が相次いで脳梗塞を起こして 片方は視野 片方は短期記憶に問題が出て それまで私は結婚して独立していたのだけど とにかく両親二人だけで元の生活に戻るのは極めて困難という医師の所見を受けて サポートしに実家に戻った こちらも小梨だし 仕事友人と自営なのでリモートできなくもないと思った 思いがけない展開に混乱かつ落胆しまくっている両親を放っておくこともできないし 両親は生活の変化に自分たちで対処できる状態でもない 心情としても二人がかわいそうでかわいそうで 少しでも以前の暮らしに戻してあげたくて できるだけ不自由させたくなくて どうするかどうなるかの見通しもないままとりあえず一人で実家に入った それからは 実家で親の世話をして 実家で仕事できるように環境を整えて深夜にリモートで自分の仕事をして 週に一回は自分の家に戻って家事して夫のマッサ

    大変だったけどもっと大変が待ってるかもの話
  • 無職になってから親が優しい

    24歳1留+既卒ニート1年目。 女。 実家を出たいのは持病で免許が取れない&親が過干渉っぽいから。在学中より無職の今の方が親が優しい。 住みは群馬に近い埼玉。 4年生を2回やった。親の意向で就職より卒論を優先した。 在学中は大学が遠く門限もあって人付き合いや課外活動が出来なくて一人暮らししたかったけど、今親から離れても大学生の友達関係とか恋愛は出来ないし、普通の人には4年分の積み上げがあるけど私にはないし。って考えちゃった。 経緯を書いていく。 19年入学→3年次躁→4年生を2回やる→イマココ 過干渉はずっと。バイトは8時まで。サークルの飲みは7時に抜けて9時には家に帰る。夜は送り迎えなしでは出掛けない、親が21時までしか起きれないから送迎有りでも21時まで。土日に2時間通勤して工場バイトした。昼間だけのところが他に無かったから。交通費はなかったから7時間働いても4000円にしかならなか

    無職になってから親が優しい
  • 宗教3世の遍歴(追記有)

    母方の家系が代々信仰の厚い家系だった。 その宗教の中でも格の高い役職に属していた母方の祖母は、俺の母にも幼少期から教えを説いたが、曰くその頃は特に信仰が厚い訳では無かったらしい。 寧ろ貧乏な家なのに樒や仏壇なんて買うのは、と口には出さないまでも思っていた時期が大半で、高校を卒業後はすぐ働き、各所に旅行に行くのが趣味だったそう。 そんな中、同じ会社に属していた父と結婚をし、一人目を授かったが、妊娠が半年を迎えようとしていた頃に胎動が消失してしまい、この世に生を受ける事は無かった。 二、三年後に時を経て二人目を授かり、無事出産に成功した、それが俺。 俺は産まれながらにして酷い皮膚炎だった。 毎晩毎晩自分の肌を掻いて出血しては泣いていたそうだ。 当時専業主婦だった母は色んな病院に通っていたが治る事は無く、万策尽きたかと思った所に、ふと実家の宗教を思い出した。 小さな仏壇を購入し、毎日100回、み

    宗教3世の遍歴(追記有)
  • 親ガチャの概念を否定しないのが親の責任ってもんだろ

    金銭的に依存してる内は、親の意に沿わないことを要望するのは甘えなんですよね。 親世代の厳しい書き込みからはそう読み取れるし、少なくとも私はそう思って、学生時代は極端で古風で過干渉な親の下、従順に過ごしてきた。別に納得していたわけでも、割り切れていたわけでもない。言いつけの多くは世間様と乖離していたように思うが、反発すると衣住やインフラを盾にとって蓋をしようとするので議論ができなかっただけだ。反抗期を自分で押し殺し、不満を熟成させた結果、こんなところでしんどさを噴出させている今の私がある。 子育て中の上司らがおおらかで柔軟に考えている様子を見ると、就職し自立した今も、よその子に対して妬みを覚える。 一方、親を要領よくあしらえず、言うことを聞きすぎた私が馬鹿を見ただけとも思う(子が多少好き勝手しても、結局見離せないのが親なんだな、という周囲の例を見ているとなおさら)。 いつまでも親はいない。

    親ガチャの概念を否定しないのが親の責任ってもんだろ
  • ニートになるか死ぬしかない弟

    弟は高3。兄弟の自分は社会人。シングルマザー家庭。 久しぶりに実家に帰ったら弟が不登校の中退引きこもりニート目前になっていた。まだ高校生だし今なら引き返せる気がするからアドバイスが欲しい。 弟は半年前くらいから不登校になり始めて、最近は完全に不登校になった。 昼は寝ていて深夜に起きてカップラーメンべ、PCゲームとYouTube、ソシャゲ課金をするだけの生活をしている。 弟は高知能ASDというやつらしくて、IQは引くほど高いのに、精神面はかなり幼い。 高3なのに、ひろゆきの真似をして、ネットで見たことを自分で考えたように話す。 他の子が彼女とディズニーに行く中、一人野獣先輩の話をしている。 怠惰で、今やらないと後で何倍も大変になるとわかってても絶対にやらない。 テスト期間や受験期であっても勉強せず、当日はどうするのかと思えば休んで逃げる。 日常生活もだらしなくて、布団の周りにはシコティと

    ニートになるか死ぬしかない弟
  • 俺の人生計画めちゃくちゃにしたのに今さら母親面すんなよ

    大学生活で色々と悲惨な目に合って、完全に手遅れになってから中退した俺だが、昔から発達の気があって何をやってもうまく行かないことが多かった。中退も早めにしておけばまだまだ自力で道も切り開けただろうに、完全に投げやりになって数年してからようやく母親から中退の許可が降りた頃には、完全に人生に対する意欲を失いかけていた。 そうして中退を認められた俺だが、その代わりの条件として、別の大学に再入学することを余儀なくされた。辛いながら何とか入学にこぎつけたものの、奨学金もあまり残っておらず、バイトをしなければ授業料を支払えない。そんなことはお構いなしに母親からなんと「バイト禁止令」が出された。授業に集中するためとのことである。ちなみに俺が投げやりになっている頃にもバイト禁止令が出され、その結果、生活が荒んだ俺はこの忌まわしい規則を回避しようとしたが、母親の目はごまかせなかった。 ちなみに俺の実家は裕福で

    俺の人生計画めちゃくちゃにしたのに今さら母親面すんなよ
  • 20年以上絶縁状態だった親父に会ってきた

    仕事は長続きしないし、ギャンブルばかりで借金まみれ、酒に酔って機嫌が悪ければ手をあげる。 挙句の果てにはよそで女をつくって蒸発。しばらくして家に戻って来るも不倫を理由に母ちゃん晴れて離婚。 そんなドラマに出てくるようなクズが俺の親父だ。 離婚後、母ちゃんと二人暮らし。 当時まだ俺もクソガキだったし大人になるまでグレたりもして、散々迷惑をかけたこともあったけど今や俺も自立して結婚もして子供もいる。 女手一つで見捨てずに育ててくれたことに今では当に感謝している。 初孫を可愛がる母ちゃんを見ると少しは親孝行できたのかなーって思っていたところだ。 そんなある日、母ちゃんに親父から連絡があり話があるので会ってほしいと。 もう関わるつもりもなければ存在しない人間として今まで20年以上絶縁状態。 今更なにを話すのか? 正直興味位もあったので母ちゃんにその気があるなら俺も同席するということになった。

    20年以上絶縁状態だった親父に会ってきた
  • 俺もレイプで生まれた子供なんだよなあ 四人兄弟で上三人はちゃんと合意の..

    俺もレイプで生まれた子供なんだよなあ 四人兄弟で上三人はちゃんと合意の上で生まれてきた、両親が20代~30代前半で産んだ子ね 俺は上の兄弟が大学行かずにちょっと特殊な進路(例えればダンサーとかアイドルとか)を目指すって言い出して両親が大喧嘩した末に 父親が母親を殴り倒して、勢いでレイプしてその時にできたんだって 姉がその様子を覗き見てて、母親が殺されちゃうと思って止めに入ったが父親はレイプを続けて、他の二人も起こして三人がかりで父親を引き離したけどもう俺は受精してたわけ 俺にとっては父親は他の家の父親より老けててその分落ち着きと渋みがあるいい父親だったけど昔はカッとして家族に暴力奮うことがよくあったんだって 精通してるのが兄にバレた際に、「俺らレイプ犯遺伝子あるから気をつけろよ」って笑い話みたいなノリで明かされてショックだった 母親は俺のこと生みたくなかったのかなってすごく悩んだ 聞けない

    俺もレイプで生まれた子供なんだよなあ 四人兄弟で上三人はちゃんと合意の..
  • 祖母の好きなひと

    わたしの母は実家が大好きな人で、子供の頃はよく泊まりに生かされたものだった。 母の生家(わたしから見た祖父母の家)は川の堤防沿いにあった。 そこは中々の田舎で、家にたどり着くまでの10m程の細道には雑草や低木が我が物顔で生い茂っていていたし、そこを歩く度に一枚の羽しかない黒胡麻の様な虫が何匹も脛にくっ付いた。 玄関を開けるとすぐ鏡張りの棚があって、そこには昔懐かしい黒電話がどんと置かれていて時々けたたましく鳴り響くのが怖くて堪らなかった。 そして夜は最悪で、日昔ばなしに出てきそうな古ぼけた畳の部屋に寝かされて、それだけでも嫌なのに遠くないところを新幹線が走るから中々寝付けなかった。 良いところなんて焼き魚を焼くと匂いに釣られた野良がにゃあにゃあ鳴きながら勝手口に集まってくるところぐらいだった。 わたしはそんな母の実家に泊まるのが嫌で嫌で泊まるのをよく嫌がったが、わたしが嫌がることを母は

    祖母の好きなひと
  • 家族という呪い

    実家にいた頃は、毎日が嫌で仕方がなかった。 今のパートナーと付き合うなり家に転がり込み、実家に寄り付くことなく入籍した。 それであの家から逃れられると思っていた。 父は典型的なDV野郎で、私の勝手な推測だがおそらく自己愛性人格障害というやつだ。 我々からすればささいなことで不機嫌になり、怒鳴り、空気を最悪にする達人だ。 元々不良な上に何らかの武道の経験があり筋肉質で、喧嘩っ早い父を止められる者は誰もいなかった。 父が母を何時間も怒鳴り、暴力を振るう姿をずっと見てきた。 父方の祖父母に会った記憶がないのだが、たしか祖父が九州の人間で、父が学生の頃に祖母は子供たちを置いて逃げ出したのだと聞いている。 きっと祖父が祖母に同じように振る舞っていたのだろうと想像に難くない。 母はお節介焼きで優しいと言えばそうなのだが、たぶんADHDか、その傾向があるように思える。 専業主婦をしていたが、おそらく家計

    家族という呪い
  • 若い父ちゃんがいたらなとうっすら思う

    20で増田を産んだら(産むのは母だけど)増田がハタチになるころ父ちゃんが40さいでしょ?すご!わっか!って感じだよね。40なんてまだまだ見た目若いし元気だし最早ともだちまであるよね。で、そういう現役で元気な父ちゃんと酒飲んで語り合ったり釣りしたりキャンプしたりなんかそういう思い出つくりたかったなーって時折うっすら思うのよ。ともだちみたいな父ちゃん、ほしかったなーって。 まあそもそも増田は父ちゃんいないんだけどさ、小学校にあがるちょうど手前で離婚しちゃってそこからずっと母親の手ひとつで育てあげられてさ。爺ちゃんはいたけどなんか部屋にひきこもってずっと静かに読んでたまに出てきたと思ったらむずかしい顔して録画した映画(ビデオ)みたりするような陰気な爺ちゃんだったから、なんか不完全燃焼なんだよね。 ちなみに両親の離婚理由は父ちゃんがある日いきなり「種子島で宇宙開発をやるんだ!それでひと儲けするか

    若い父ちゃんがいたらなとうっすら思う