幕末の遣欧使節団 2.横浜鎖港談判使節団の一行 文久3(1863)年は孝明天皇の命のもと、日本全国で奉勅攘夷の嵐がふきあれ、5月には下関海峡で長州藩が外国船を砲撃し、7月には薩英戦争が勃発した。苦境に追いこまれた幕府は、外交交渉によって横浜のみの鎖港を実現しようと、同年12月外国奉行池田筑後守を正使とする使節団をヨーロッパに派遣する。しかし、ヨーロッパ各国が承知する訳もなく、最初の訪問国フランスで見切りをつけた使節団は元治元(1864)年7月横浜港に帰国し、幕府から処罰された。 使節団一行の写真はパリの医学研究所を訪問した際ルイ・ルソーによって撮影された。ここに示すものがそれである。また一行の内には菅波恒のようにパリの写真家に撮影してもらった人々もいた。当時の幕臣達は相当のつらがまえのもちぬしであった。配列は当時の身分序列に従っている。 *** 写真をクリックすると、大きく表示します。**