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ブックマーク / freezing.blog62.fc2.com (9)

  • 坂のある非風景 日本文学十選

    Author: M ペンを折ることさえ、ここではもう「別の手段による詩の継続」を意味しているにすぎないという宿命に、それからも耐え続けた。 freezingm▽gmail.com 1. 梶井基次郎『檸檬』 小説としての完成度とか透明感について語ってみせても、どうしてこれが小説なのか、といった問いを神話化するだけかもしれない。『冬の日』にすべきかと迷った。『冬の日』は小説としての完成度はない。むしろ「悲しみの完成度」といったものを思いつく。そんなものに完成度があるとしてだが。もちろんそんな完成度を、ただ梶井基次郎が提示したのである。ある友人のズボンの後ろポケットにはかならずこのが入っていた。入っていない時、彼は屋でこのを探していた。 2. 埴谷雄高『死霊』 「シレイ」と読む。なぜか第一位にしたくなかった。埴谷雄高は二・二六事件の時すでに獄中にいた。この小説はこのブログで何度か触れたし、

    Gen
    Gen 2008/11/11
  • 坂のある非風景 本棚を晒さない

    棚を見てみたいというトラックバックが詩のサイトの方にきた。心揺々として戸惑ひ易く - 棚を晒す 夢を語るのは裸になることよね、金井美恵子。棚を晒すことは、夜見た夢を語るのとおなじで、裸になるよりも恥ずかしいことだと、その他の人からも聞いたことがある。そういう観点からは、もちろん白昼に、目覚めていて見ている夢のほうがはるかに恥ずかしい。棚は、その、昼間に見ている夢に属する。 私の感性や知性が無防備にも反射されている書架。それどころではない。さらに棚は防御なのだし、防御によってさらにあからさまな弱点をさらけ出す。理論で武装する者は理論が弱点であり、知識で武装する者は知識に弱い。 しかし、書物とは美しい形式である。ただ並べられ、読まれなければ読まれないほど。 あなたといっしょになれば、この棚がわたしのものになるんだって思った、と女は言った。女は、書棚と結ばれようとしていたのか。書棚を

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    Gen 2008/11/11
  • 坂のある非風景 : 愛することは失い続けることなのか

    「さて失恋から立ち直るためにはその原因についてあれこれ考えないようにするのがいちばんで、具体的にはどうすればよいかというと」と、書きはじめられている。 彼または彼女と歩いた道を、一緒に行ったレストランを、よく聴いた音楽を、相手を思い出させたり連想させたりする一切のものを避けること。もう彼または彼女からかかってくることなどない(でも、かかってくるかもしれないという希望を捨てきれない)携帯電話も新規で契約し直したりとか。まあ、こんなこと書かずとも、みんな知っていることばかりか。 そして自分が失ったのは愛ではなくて一人の人間なのだと思うこと。 そうなのか、失恋は、まるで災厄のように考えられているのかということに、改めて気づかされる。たしかに忘れることは、私が私の過去とともに生きるひとつの方法である。そして忘れようとすることは、その過去への強固なしがみつきを表している。だとすれば、けっして忘れない

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    Gen 2008/11/11
    "喪失によって、失ったものは、完全な私の愛の対象となってしまう。喪失にしがみつく行為こそが、愛の対象を作り出す作業であり、喪失を通して、私は私の愛の対象と結ばれる"
  • 坂のある非風景 私だけのウソを求めて

    50パーセントの確信しかない場合でも、書いてしまうと100パーセントの確信が語られてしまうことがあるし、わざとそう書く場合もある。ウソを語っているのか、いや、誇張しているのである。そして読み手の中には、ちゃんと誇張を差し引いて読むことができる人もいる。そういう読者はかなり貴重な読者だといえる。 ここで問題になっているのは、「理解」ではなく「納得」だと思う。言葉に対する姿勢ではなく、良好な人間関係とは何か、ということだ。世界は「理解できるが納得できない」もので満ち溢れている。そのギャップを埋めようとして、相手に問う「何故」があり、「理解できない(正確には、納得できない)」という声があがる。しかしたとえそのギャップが埋められて、何が得られるというのだろう。いやそんな身も蓋もないことが言いたいわけじゃない。理解と納得の間にあるギャップが、人を人に接近させ、遠ざける、そういうことだろう。 しょせん

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    Gen 2008/11/11
    "理解と納得の間にあるギャップが、人を人に接近させ、遠ざける、そういうことだろう"
  • 坂のある非風景 理解しないことによる理解へ

    僕はただ単純に常識から考えるのです。つまり、他人の苦痛が、どれだけわかるかということ。他人の苦痛がわからないから、医者や看護婦は的確な処理ができる。他人の苦痛は絶対にわからないから、家庭生活も可能なのでしょう。 吉隆明との対談で江藤淳が語っているのは、痛みを理解することではなく、病を理解することがその痛みを取り除く、という法則といってもいいような事実である。医者は患者の痛みを理解しない、だから手術も平然とできる。それは共感なき理解、<理解しないことによる理解>と呼べるものだ。あるひとが苦痛を訴え凭れかかってきたとき、共感的理解によって共に倒れるか、共感なき理解によって支えとなるかといったふたつの愛の分かれ道がそこにある。これを小説と批評の対立と見てもいい。あるいは第三項、共感なき理解によって共に倒れるか。それだとあまりに太宰的か。 「はしごたん騒動」の中で大野さんの記事を読んだ。「彼女に

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    Gen 2008/11/11
    "あるひとが苦痛を訴え凭れかかってきたとき、共感的理解によって共に倒れるか、共感なき理解によって支えとなるかといったふたつの愛の分かれ道がそこにある"
  • 坂のある非風景 正しさはどこにあるのか

    評論家だって忙しいんだ、いちいち作品なんて読んでいる暇はない、といったことを小林秀雄が言っていて、批評を作品化するという小林の業績は、最終的には、作品にならない、作品に劣るしかない批評という宿命を明るみに出してしまった。対極には平野謙がいて、彼は徹底的な推理癖によって作品に深さを与え、批評が批評として立つ地平を定め、その分限を打ち立てた。作品をだしにして自分を語ることと自分を消し去ることによって作品や作家を語るというこの両極に挟まれた狭い空間が現在の批評の空間となっていて、そこを突破し解体するような第三点はいまだ出現していない。 小説なんて好き勝手に読めばいいものだが、そういった自由こそが、批評の読みに比べ、比較にならないほど狭い世界で、不自由極まりない世界だということは言っておきたい。個人的な好悪や感性の幅はあまりに狭く、その貧困がブログには露骨に現われているように見える。一瞬で「よかっ

    Gen
    Gen 2008/11/11
    "正しさとは、遠い未来、無限遠点から射してくる光のようなもので、ひとつの方向性としての意味しかなく、その光を見る視線は、自分の確信を否定(相対化)するときにしか見えない"
  • 坂のある非風景 泡沫のように生滅せよ

    小学4年生の子どもが作文の問題をしていて、ただ、誰かになにか言われてうれしかったことを書けばいい、そういう他愛ないものだったが、子どもは、悪口を言われてくやしかったことは何度もあるが、なにか言われてうれしかったことは一度もないと言って、そこで止まってしまった。 この設問は「物語」の作成だった。きわめてイデオロギー的な、つまり合社会的な文脈で、生活の中からむりやりに「よい話」を作り出させようとする意図がぷんぷんと匂った。誰にだって「うれしかった」ことくらいあるだろう、そういう常識と呼ばれる物語の強制である。 わたしたちは誰でも、めいめい日常のあいだに物語を語り、聴き耳をたて、ひそかにじぶんでも物語を作りながら生活している。それぞれが物語にかこまれ、物語をのこし、物語をべ物みたいに呑みこんで、日々を繰返す。だが不思議なことに、この日常世界には物語めいたことが少なすぎるとおもっている。生活の繰

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    Gen 2008/11/11
    "物語の本質は、作品化されることにあるのではなく、一瞬語られて、二度と思い出すことのできない消失の運命につき従う、そこにこそあるのではないだろうか"
  • 坂のある非風景 夢の中の沈黙

    言語とは肌なのだ。わたしはおのれの言語をあの人にすりつける。指のかわりに語をもつというか、語の先に指をもつというか。わたしの言語は欲望に打ち震えている。その動揺は、ある二重の接触から来ているのだ。一方では、ディスクール活動の全体が、慎重かつ間接的に、「わたしはあなたを欲している」というたったひとつの意味内容をとり上げ、解き放ち、これを涵養して繁茂させ、爆発させている。もう一方でわたしは、わたしの語の中にあの人をくるみ込んでいる。あの人を愛撫し、あの人に触れ、そうした接触を保ちつづけ、二人の関係に加える注釈を持続させようとして消耗しているのである。 「触れる」という動詞が「語」の術語として適切すぎること、そして「告白することは消耗すること」に注目する。 プラトニック・ラブとは、終りのない告白、永遠の消耗を宿命とすることだった。終りとはオルガスムスである。それは消耗の終止地点を示す。桑田佳祐の

  • 坂のある非風景 twitterを去りました

    それは砂場で、友だちがひとりふたりと去ってゆく夕方のある時間になった砂場で、それじゃあと、私も手から砂を払い、服から砂を払ったのだ。自分の場所があって、そこを思い出す一日の終わりがあって、そういう「一日の終り」が、人生には何度か訪れる。 私の場所ではなく、だれの場所でもない場所には<関係>だけがあって、そこでは、やってこなかった友だちとも結ばれていて、ここに来ていっしょに遊びたいと思って窓から遠くこちらを見ている友だちとも、砂場に来るたびに結ばれていた。 去ることが友だちを作り、見送ることが友だちを作る。つまり、別れることだけが友愛を証明するのだが、そのとき友愛の名によって何かを与えあう可能性はとざされてしまっている。今度は私が窓の向こうから、昨日までここで遊んでいた私自身を、昨日は遠すぎる、待てば待つほど遠ざかる、そういう遠さから、見る番なのだ。 @shasei氏、@gumin氏と立て続

    Gen
    Gen 2008/11/11
    "去ることが友だちを作り、見送ることが友だちを作る。つまり、別れることだけが友愛を証明するのだが、そのとき友愛の名によって何かを与えあう可能性はとざされてしまっている"
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