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2008年11月11日のブックマーク (16件)

  • 超革命的恋愛マニュアル

    Super Revolutionary Love Manual

    超革命的恋愛マニュアル
    Gen
    Gen 2008/11/11
  • 古着に関する調査/ネットリサーチDIMSDRIVEの公開アンケート調査結果【DIMSDRIVE】

    古着の購入経験がある人は42.1% 古着をおしゃれに着こなしている・いそうな有名人は? ビンテージ物や1点物も多く、安価で買える古着。 味のあるおしゃれアイテムが古着の良さだと考える人が多いようです。 インターワイヤード株式会社が運営するネットリサーチのDIMSDRIVEでは、「古着の購入」についてアンケートを行い、購入経験、購入のきっかけなどについて調査結果をまとめました。 調査は2008年9月3日(水)~9月18日(木)にかけて実施し、DIMSDRIVEモニター10,099人から回答を得ています。 ● 1ヶ月にかけるファッション費、約6割が「5,000円未満」 ● 古着の購入経験がある人は42.1% ● 古着購入のきっかけは・・・「気に入った物が古着だった」、「安い服を探していた」 ● 古着の良いところは「安さ」と「味のあるおしゃれ」 ● 7割が古着を買う事に抵抗感 ● 古着を買わない

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    Gen 2008/11/11
  • ♧ fallen_yoko

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    ♧ fallen_yoko
    Gen
    Gen 2008/11/11
    可愛い/誰?
  • 英語の圧倒的一人勝ちで、日本語圏には三流以下しか残らなくなるが、人々の生が輝ければそれでいい - 分裂勘違い君劇場

    英語の圧倒的一人勝ちで、日語は衰退してしまうから、国語を守るために、国語の時授業時間を増やし、近代日文学を読み継がせるのに主眼を置くべき」 と主張する「日語が亡びるとき」というを、梅田望夫氏と小飼弾氏が絶賛しているが、こので主張されているのは、 日文化を守るために個々人の人生を犠牲にする、愚劣な教育政策だ。 日語が亡びるとき―英語の世紀の中で 作者: 水村美苗出版社/メーカー: 筑摩書房発売日: 2008/11/05メディア: 単行購入: 169人 クリック: 12,657回この商品を含むブログ (459件) を見る 今後、世界中の、あらゆる価値ある知識は英語で生産され、英語で流通する。 インターネットの普及が、その流れをますます加速している。 世界中の知的にパワフルな人々は、ますます母国語よりも英語で読み、英語で書き、 英語で議論しながら、価値ある学術的成果・文化・商品

    英語の圧倒的一人勝ちで、日本語圏には三流以下しか残らなくなるが、人々の生が輝ければそれでいい - 分裂勘違い君劇場
    Gen
    Gen 2008/11/11
    外国語副作用 http://tinyurl.com/6daaeu / 本気で世界と伍したいなら英語を母語にできるようなシステム・制度を模索すべき / 現段階で日本語を放棄するには早いけれど、今後はわからない / まぁなるようにしかならないですね
  • フィリップ・ソレルス「幸福なディドロ」|思想の言葉|SHISO No.1076

    『図書』は大勢の知的好奇心あふれる読者に1938年の創刊以来愛読されてきた「読書家の雑誌」です。 古今東西の名著をめぐるとっておきの話やエピソード、心を打つヒューマン・ストーリー、旅のときめき体験、人生への思索などを綴る、滋味あふれるエッセイの数々。 文学・芸術・学問の面白さを語る対談・座談・インタビュー。若手からベテランまで『図書』ならではの一流の執筆陣が書き下ろす文章の力と味わいは、日常生活にピリッと刺激を与えるスパイスの働きをするはずです。 魅力的なとの出会いの場、読書の新しい愉しみ発見の場として月刊『図書』の定期購読をおすすめいたします。 巻末の新刊案内は岩波書店の出版活動の最新情報をいの一番にお届けする「読者と岩波書店を結ぶホットライン」です。 綴じ込みの〈書籍注文ハガキ〉もご利用ください。

    フィリップ・ソレルス「幸福なディドロ」|思想の言葉|SHISO No.1076
    Gen
    Gen 2008/11/11
    "メルロ=ポンティの晩年の思考は、「炸裂」といった暴力的なイメージを色濃く孕む術語を散りばめながらも、最終的には現われを予定調和的ともいえる円環というナルシスティックな構図へ収めてしまうようにみえる。"
  • シンポジウム「生成文法の可能性」レポ - 誰がログ

    昨日書くつもりだったんですけど、ちょっとした休憩のつもりが睡眠になってしまいました(^^; ※レポっていっても内容の説明とかは無しで自分の感想ぐらいしか書きません。あしからず。 朝〜午前中の講演 高速バスで向かったため、早めの出発。眠し… 午前中の講演は "Phonetics as Brain Training" Michael Ashby(Senior Lecturer in Phonetics,University College London) phoneticsの知識が言語のperformanceにどういう影響を及ぼすか、プロのphoneticianの頭の中がどうなってるかっていうような話。内容は面白かったんですけど、僕自身の英語の処理能力がかなり落ちているということもあって詳しいレポートには自信が無いのでやめておきます。午後のシンポジウムとはとりあえず関係無いですしね。いやーまた

    シンポジウム「生成文法の可能性」レポ - 誰がログ
  • 坂のある非風景 日本文学十選

    Author: M ペンを折ることさえ、ここではもう「別の手段による詩の継続」を意味しているにすぎないという宿命に、それからも耐え続けた。 freezingm▽gmail.com 1. 梶井基次郎『檸檬』 小説としての完成度とか透明感について語ってみせても、どうしてこれが小説なのか、といった問いを神話化するだけかもしれない。『冬の日』にすべきかと迷った。『冬の日』は小説としての完成度はない。むしろ「悲しみの完成度」といったものを思いつく。そんなものに完成度があるとしてだが。もちろんそんな完成度を、ただ梶井基次郎が提示したのである。ある友人のズボンの後ろポケットにはかならずこのが入っていた。入っていない時、彼は屋でこのを探していた。 2. 埴谷雄高『死霊』 「シレイ」と読む。なぜか第一位にしたくなかった。埴谷雄高は二・二六事件の時すでに獄中にいた。この小説はこのブログで何度か触れたし、

    Gen
    Gen 2008/11/11
  • 坂のある非風景 本棚を晒さない

    棚を見てみたいというトラックバックが詩のサイトの方にきた。心揺々として戸惑ひ易く - 棚を晒す 夢を語るのは裸になることよね、金井美恵子。棚を晒すことは、夜見た夢を語るのとおなじで、裸になるよりも恥ずかしいことだと、その他の人からも聞いたことがある。そういう観点からは、もちろん白昼に、目覚めていて見ている夢のほうがはるかに恥ずかしい。棚は、その、昼間に見ている夢に属する。 私の感性や知性が無防備にも反射されている書架。それどころではない。さらに棚は防御なのだし、防御によってさらにあからさまな弱点をさらけ出す。理論で武装する者は理論が弱点であり、知識で武装する者は知識に弱い。 しかし、書物とは美しい形式である。ただ並べられ、読まれなければ読まれないほど。 あなたといっしょになれば、この棚がわたしのものになるんだって思った、と女は言った。女は、書棚と結ばれようとしていたのか。書棚を

    Gen
    Gen 2008/11/11
  • 坂のある非風景 : 愛することは失い続けることなのか

    「さて失恋から立ち直るためにはその原因についてあれこれ考えないようにするのがいちばんで、具体的にはどうすればよいかというと」と、書きはじめられている。 彼または彼女と歩いた道を、一緒に行ったレストランを、よく聴いた音楽を、相手を思い出させたり連想させたりする一切のものを避けること。もう彼または彼女からかかってくることなどない(でも、かかってくるかもしれないという希望を捨てきれない)携帯電話も新規で契約し直したりとか。まあ、こんなこと書かずとも、みんな知っていることばかりか。 そして自分が失ったのは愛ではなくて一人の人間なのだと思うこと。 そうなのか、失恋は、まるで災厄のように考えられているのかということに、改めて気づかされる。たしかに忘れることは、私が私の過去とともに生きるひとつの方法である。そして忘れようとすることは、その過去への強固なしがみつきを表している。だとすれば、けっして忘れない

    Gen
    Gen 2008/11/11
    "喪失によって、失ったものは、完全な私の愛の対象となってしまう。喪失にしがみつく行為こそが、愛の対象を作り出す作業であり、喪失を通して、私は私の愛の対象と結ばれる"
  • 坂のある非風景 私だけのウソを求めて

    50パーセントの確信しかない場合でも、書いてしまうと100パーセントの確信が語られてしまうことがあるし、わざとそう書く場合もある。ウソを語っているのか、いや、誇張しているのである。そして読み手の中には、ちゃんと誇張を差し引いて読むことができる人もいる。そういう読者はかなり貴重な読者だといえる。 ここで問題になっているのは、「理解」ではなく「納得」だと思う。言葉に対する姿勢ではなく、良好な人間関係とは何か、ということだ。世界は「理解できるが納得できない」もので満ち溢れている。そのギャップを埋めようとして、相手に問う「何故」があり、「理解できない(正確には、納得できない)」という声があがる。しかしたとえそのギャップが埋められて、何が得られるというのだろう。いやそんな身も蓋もないことが言いたいわけじゃない。理解と納得の間にあるギャップが、人を人に接近させ、遠ざける、そういうことだろう。 しょせん

    Gen
    Gen 2008/11/11
    "理解と納得の間にあるギャップが、人を人に接近させ、遠ざける、そういうことだろう"
  • 坂のある非風景 理解しないことによる理解へ

    僕はただ単純に常識から考えるのです。つまり、他人の苦痛が、どれだけわかるかということ。他人の苦痛がわからないから、医者や看護婦は的確な処理ができる。他人の苦痛は絶対にわからないから、家庭生活も可能なのでしょう。 吉隆明との対談で江藤淳が語っているのは、痛みを理解することではなく、病を理解することがその痛みを取り除く、という法則といってもいいような事実である。医者は患者の痛みを理解しない、だから手術も平然とできる。それは共感なき理解、<理解しないことによる理解>と呼べるものだ。あるひとが苦痛を訴え凭れかかってきたとき、共感的理解によって共に倒れるか、共感なき理解によって支えとなるかといったふたつの愛の分かれ道がそこにある。これを小説と批評の対立と見てもいい。あるいは第三項、共感なき理解によって共に倒れるか。それだとあまりに太宰的か。 「はしごたん騒動」の中で大野さんの記事を読んだ。「彼女に

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    Gen 2008/11/11
    "あるひとが苦痛を訴え凭れかかってきたとき、共感的理解によって共に倒れるか、共感なき理解によって支えとなるかといったふたつの愛の分かれ道がそこにある"
  • 坂のある非風景 正しさはどこにあるのか

    評論家だって忙しいんだ、いちいち作品なんて読んでいる暇はない、といったことを小林秀雄が言っていて、批評を作品化するという小林の業績は、最終的には、作品にならない、作品に劣るしかない批評という宿命を明るみに出してしまった。対極には平野謙がいて、彼は徹底的な推理癖によって作品に深さを与え、批評が批評として立つ地平を定め、その分限を打ち立てた。作品をだしにして自分を語ることと自分を消し去ることによって作品や作家を語るというこの両極に挟まれた狭い空間が現在の批評の空間となっていて、そこを突破し解体するような第三点はいまだ出現していない。 小説なんて好き勝手に読めばいいものだが、そういった自由こそが、批評の読みに比べ、比較にならないほど狭い世界で、不自由極まりない世界だということは言っておきたい。個人的な好悪や感性の幅はあまりに狭く、その貧困がブログには露骨に現われているように見える。一瞬で「よかっ

    Gen
    Gen 2008/11/11
    "正しさとは、遠い未来、無限遠点から射してくる光のようなもので、ひとつの方向性としての意味しかなく、その光を見る視線は、自分の確信を否定(相対化)するときにしか見えない"
  • 坂のある非風景 泡沫のように生滅せよ

    小学4年生の子どもが作文の問題をしていて、ただ、誰かになにか言われてうれしかったことを書けばいい、そういう他愛ないものだったが、子どもは、悪口を言われてくやしかったことは何度もあるが、なにか言われてうれしかったことは一度もないと言って、そこで止まってしまった。 この設問は「物語」の作成だった。きわめてイデオロギー的な、つまり合社会的な文脈で、生活の中からむりやりに「よい話」を作り出させようとする意図がぷんぷんと匂った。誰にだって「うれしかった」ことくらいあるだろう、そういう常識と呼ばれる物語の強制である。 わたしたちは誰でも、めいめい日常のあいだに物語を語り、聴き耳をたて、ひそかにじぶんでも物語を作りながら生活している。それぞれが物語にかこまれ、物語をのこし、物語をべ物みたいに呑みこんで、日々を繰返す。だが不思議なことに、この日常世界には物語めいたことが少なすぎるとおもっている。生活の繰

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    Gen 2008/11/11
    "物語の本質は、作品化されることにあるのではなく、一瞬語られて、二度と思い出すことのできない消失の運命につき従う、そこにこそあるのではないだろうか"
  • 坂のある非風景 夢の中の沈黙

    言語とは肌なのだ。わたしはおのれの言語をあの人にすりつける。指のかわりに語をもつというか、語の先に指をもつというか。わたしの言語は欲望に打ち震えている。その動揺は、ある二重の接触から来ているのだ。一方では、ディスクール活動の全体が、慎重かつ間接的に、「わたしはあなたを欲している」というたったひとつの意味内容をとり上げ、解き放ち、これを涵養して繁茂させ、爆発させている。もう一方でわたしは、わたしの語の中にあの人をくるみ込んでいる。あの人を愛撫し、あの人に触れ、そうした接触を保ちつづけ、二人の関係に加える注釈を持続させようとして消耗しているのである。 「触れる」という動詞が「語」の術語として適切すぎること、そして「告白することは消耗すること」に注目する。 プラトニック・ラブとは、終りのない告白、永遠の消耗を宿命とすることだった。終りとはオルガスムスである。それは消耗の終止地点を示す。桑田佳祐の

  • 坂のある非風景 twitterを去りました

    それは砂場で、友だちがひとりふたりと去ってゆく夕方のある時間になった砂場で、それじゃあと、私も手から砂を払い、服から砂を払ったのだ。自分の場所があって、そこを思い出す一日の終わりがあって、そういう「一日の終り」が、人生には何度か訪れる。 私の場所ではなく、だれの場所でもない場所には<関係>だけがあって、そこでは、やってこなかった友だちとも結ばれていて、ここに来ていっしょに遊びたいと思って窓から遠くこちらを見ている友だちとも、砂場に来るたびに結ばれていた。 去ることが友だちを作り、見送ることが友だちを作る。つまり、別れることだけが友愛を証明するのだが、そのとき友愛の名によって何かを与えあう可能性はとざされてしまっている。今度は私が窓の向こうから、昨日までここで遊んでいた私自身を、昨日は遠すぎる、待てば待つほど遠ざかる、そういう遠さから、見る番なのだ。 @shasei氏、@gumin氏と立て続

    Gen
    Gen 2008/11/11
    "去ることが友だちを作り、見送ることが友だちを作る。つまり、別れることだけが友愛を証明するのだが、そのとき友愛の名によって何かを与えあう可能性はとざされてしまっている"
  • 現在思想のために

    4 ソシュールの記号概念 彼による記号の分析は――この点はうっかりすると見過ごしがちだが――実に重大な含意を伴っている。 第一に、彼の記号概念とともに、記号への指示論的アプローチからカテゴリー論的アプローチヘの転換が決定的に成就されたのである。第二に、この転換には、形而上学ないし世界観の更新が伴っていた。常識的実在論から内部存在論への更新である。どういうことか、しばらく説明を試みたい。 ソシュールは、ジュネーブ大学における有名な講義で、現に流布している言語理解を「名称目録(nomenclature)観」と呼んで厳しく批判した。この批判は例えば次の遺稿にも読むことができる。「言語哲学者たちの考え方の大部分は、我々の始祖アダムを思わせる。つまりアダムはさまざまな動物を傍らに呼んで、それぞれに名前をつけたという。それは事物の名称目録という考え方である。これによれば、まず事物があって、それから記号

    現在思想のために
    Gen
    Gen 2008/11/11
    菅野盾樹blog