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The London Underground~輝き続けるデザイン~ イギリスはロンドンの地下鉄(Underground)のシンボルマークであるチューブ・マーク、チューブマップ、これらは地下鉄のシンボルだけでなく、ロンドンのシンボルといっても言い過ぎではないでしょう。 企業が持つ特徴や理念を識別する、コーポレート・アイデンティティー(Corporrate Identity 略:CI)の元祖と言われるほど、後世に多大なる影響を与えた偉大なるデザインです。 ロンドンの地下鉄は『Tube(チューブ)』という愛称で呼ばれており、『世界初の地下鉄』として世界中にある地下鉄の中で最も歴史が古い、1863年から開通されています。日本では薩長同盟が結ばれる少し前ぐらいの事です。 そんな時代から地下鉄が通っていることにまず驚きなのですが、地下に鉄道が必要なほど、すでにロンドンは大都会だったのです。 世界初の地
http://www.be.asahi.com/be_s/s01.html - 2008年3月3日 13:01 - ウェブ魚拓
名取洋之助の『写真の読み方』を読んだ。名取洋之助という名前には疎かったが、彼が編集した岩波写真文庫なら知っている。大学に入りたてのころにはまだ書店に並んでいたのではなかったか? 実際には1950年から8年にわたり286冊の刊行を成し遂げた戦後日本における報道写真の金字塔であったということを、今回はじめて知った。『写真の読み方』は名取洋之助の死の翌年1963年の11月に岩波新書として刊行されたものだが、僕が購入したのは2004年の11月に復刊されたものだ。40年も前の岩波新書。ところが、いや、だからというべきか、文章になにやら名状しがたい気魄がこもっている。一章は「写真の読みかた」…写真誕生の歴史から、虚と実をあわせもつ記号としての写真の役割と可能性についての考察。二章は「私の経験とカメラマンたち」…まさに筆者の半生記。そして圧巻なのが三章の「二つの実例」。この章で名取は得意の組写真の実例を
写真は必ずしも真実を伝えるとは限らない。「真を写す」という名を持つメディアは、使い方次第で実にたやすく多くの人々を欺くことができる。前後の文脈から切り離した写真に新たな物語を付与することで、意図的に驚くべき新事実を捏造することが可能なのであった。日常にあふれかえる「嘘」や「やらせ」の片棒を担ぐ写真を、我々はどのように読み解けばよいのだろうか。 2002年にちくま文庫から出た新藤健一の『崩壊する映像神話』は、こうした写真や映像の持つ「魔力」について検証した書であった。誰もが知っているような事件を取り上げ、それを伝える写真と映像がどのように使われていたのか、具体的に考察がなされている。一人歩きするほどに写真に力を与えてしまった人間は、それによって自らが欺かれるという愚かな無限ループに落ち込んでいる。 魔術的な写真の持つ力を理解した上で、それらをいかに読むかということを論じた書が、名取洋之助の『
弁当と日本文化(Bento (Lunch Box) and Japanese Culture) Maria RODRIGUEZ DEL ALISAL(マリア・ロドリゲス・デル・アリサル) スペイン・マドリード国立外国語学校助教授/日本学研究所所 序 この論文では、弁当の機能と用途について述べ、更に、日本文化でのその意義について考えてみたいと思います。 日本では、弁当は昔から広く使用されてきました。今では日本人の生活様式はすっかり近代化、西欧化されています。それにもかかわらずこのような食様式が、そして容器が、なぜ、どのようにして今日まで絶えることなく引き継がれてきたのか、ということに私は強い関心を抱いています。この論文で私は、弁当箱がどのようにして新しい価値水準、一つの象徴にまで達したかを、個人的意識および国家意識を中心に、社会的な相関作用やグループ意識について述べながら、検討してみたいと思
和算と漢算を通してみた日韓文化比較 (Comparative Study of Japanese and Korean Culture on the View of Traditional Mathematics) 金 容雲(Kim Yong-Woon ) 漢陽大学 数学科教授 序 私はもともと数学者であり、数学とは世界中どこでも同じであるというように教育され、そう信じて来た。 いわゆるデカルト哲学で言う知性とは人類共通の普遍なものという考えである。しかし同じ教科書を以て始まった数学が国毎に違うことがありうることを数学史の研究を通じて痛感した。 勿論、伝統数学の枠組みでのことである。かつて鎖国のように互いの往来を極度に制限される状態の中では、民族毎に伝統文化の枠組の中で形成された別個の数学が存在し得るといえる。 ここでいう数学は特に各民族の合理精神の象徴としての精神的な構成物である。この違
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