2007年8月21日のブックマーク (11件)

  • 社会システムとルール社会を越えていくもの: 極東ブログ

    世界と「私」はどのような関係にあるのか。その関係はどのように変遷し、今、どう変わろうとしているのか、といった、青臭いネタを書く。話を簡素にするために、叩き台的に哲学者竹田青嗣「『自分』を生きるための思想入門」(参照)を使うが、話の筋は竹田の議論にそれほど依存しなくてもいい。ただ、その場合は議論が煩瑣になるというくらいだろうと思う。 同書については、ちょっと哲学志向のある高校生や大学生は読んでおくとその後人生が楽になるかもしれない。哲学プロパーな人は些細な点でいろいろひっかかえって途中で放り投げてしまうかもしれない。竹田の著作史的には、初期の現象学とこの時期特有の橋爪大三郎との交流の影響がある。それでも書の大枠は比較的近著「人間的自由の条件―ヘーゲルとポストモダン思想」(参照)までの射程を持っている。というか、むしろ先の書のほうが竹田思想のコアが見やすい。 まず古典的な世界象は未だ国会

  • グーグルは何かを知ろうとしている: 極東ブログ

    雑記でもないのだがちょっと散漫な話になる。ので、一応結論的みたいのを先に言っておくと標題どおり「グーグルは何かを知ろうとしている」ということだ。何かとは取り敢えず人々の欲望としておく。誤解されるかなと思うのは、私がここで「グーグル」というのはシステムのことであって、その会社の経営者とか開発者という人間を指しているわけではない。 話の起点は先日のことだ。田健(著)「ユダヤ人大富豪の教え」(参照)の引用が多いあるブログのエントリについて、はてなブックマークが多数付いたことに、私は奇異な感じを持った。該当のはてなブックマークは「はてなブックマーク - ユダヤ人大富豪の教え : akiyan.com」(参照)である。はてなダイアリーでの引用を含めると四百点近いブックマークとなった。 私はこの書籍についてフィクションだと思っているしあまり関心はない。が、はてな利用者がこの書籍についてこんなに関心を

  • 機械は意識を持つか。コンピューターは意識を持つか。インターネットは意識を持つか。: 極東ブログ

    結論を先に書くと、機械は意識を持つか。イエス。コンピューターは意識を持つか。イエス。インターネットは意識を持つか。イエス。 昨日「極東ブログ: デカルト的な考えによれば人間の身体は機械である」(参照)を書いたおり、私は意図的に機械主義についてオートマトンから始め、デカルトとその後継の機械主義を分け、「デカルト的な考えによれば人間の身体は機械である」とし、けして「デカルトの考えによれば人間は機械である」とは書かなかった。デカルト自身は人間の総体については機械とは考えなかったからだ。 デカルトは、雑駁に言えば、人間の精神は別に存在し松果体によって身体と結びついていると考えていた。また、その精神こそが動物と人間との差異として考えた。このような人間の超越性についての考えの延長には現代ではチョムスキーの思想が存在する(彼はUGの構成性をピアジェが知性の基底を扱うような進化論的な獲得のプロセスモデルと

  • アルファブロガーなど雑感: 極東ブログ

    数日で2006年が終わる。どういう年だったか自分に問うてみてうまく焦点が浮かばない。このブログについて言えば今年で三年が経過した。エントリ数もたぶん初夏のころ千を超えた。自分なりに感慨があったが、そうしたことを振り返ってここにエントリの形で書いてみたいとは思わなかった。うまく言えない疲労感のようなものもあった。秋頃、体調を崩したこともあって一日一エントリを書く気概は抜けたのだが、顧みるとこの三年は気概のようなものを自分なりには持っていた。 そうした一つのきっかけとなったのは、FPN主催の「アルファブロガーを探せ 2004」という企画で、論壇系のアルファブロガーとして選ばれたことだった(参照)。嬉しく思ったことは確かだが、困惑もした。「あんなくだらねないブロガーがアルファブロガーなんてちゃんちゃらおかしい」という趣旨のコメントもすでにいただいていたし、たぶん耳を澄ませばもっと聞こえることだろ

  • [書評]中原中也との愛 ゆきてかへらぬ(長谷川泰子・村上護): 極東ブログ

    昭和文壇の三角関係恋愛劇、中原中也、長谷川泰子、小林秀雄。そのピヴォット、長谷川泰子自身の語りによる一冊。私は小林秀雄の愛読者で、この劇にも強い関心をもっていたが、このは読み落としていた。一読、村上護の仕事がすばらしい。 今回読んだのは文庫による復刻。初版は一九七四年。オリジナル・タイトルは「ゆきてかへらぬ 中原中也との愛」、とこの文庫版の逆。そのまま愛がかへらぬという洒落に読める。なぜ今頃復刊といぶかしく思ったが、文庫の最終ページに新編中原中也全集の広告、「生誕90年・没後60年を期して30年ぶりに全面改訂の全集!」とあり、その祭の一環なのだろう。 一読して面白かった。なぜ今まで読まなかったのか悔やまれたかというと、そうでもない。五十歳にも近い自分にしてみると、もう彼らの二十代の惨劇は、「ああそういふものか」と見える部分もあるし、今の自分にしてみると三十歳くらいの女はかわゆく見える。

  • [書評]心の探究(佐々木孝次): 極東ブログ

    佐々木孝次「心の探究」(せりか書房)はアマゾンではもう見かけなかった。文庫化していることもないと思う。初版は一九八〇年なのでそう古いでもなく、古書店などでは比較的容易に見つかるだろう。サブタイトルに「精神分析の日記」とあるように、ラカン派の著者がフランスでラカン派の精神分析を七十二回に渡り受けていた足かけ二年を扱っている。 私は折に触れてこのを読み続けてきた。そうしなければならない内的な理由があるからだ。この以外では出会うことのない恐ろしいインサイトに自分の精神を晒さなくてはならなかった。気が付くと、今の自分が佐々木が分析を受けていた年齢を超えている。 精神分析とは、単純に言ってしまえば、疑似科学であろう。そこで終わりとなればいいのだが先日のニューズウィークに蘇るフロイトの記事があったが(それはそれなりに浅薄なものだったが)、フロイトはそう容易く葬り去られはしない。理由はある意味で

  • 男の幸せ: 極東ブログ

    ちとわけあって、「男の幸せ」というのを問われた。ついでなんでブログのネタにする。なお、この話、これ以上のフォローはなしです。ま、そういうこと。 Q 酒井順子「負け犬の遠吠え」を巡って、女性の幸せについて話題になっていますが、それでは男としての幸せとは、いったいなにが決め手になるとお考えですか? A 結婚っていうことだと、男の場合、その意味は世代で随分違うと思うんですよ。私は昭和32年生まれですが、上の団塊の世代で大学とか行けた中産階級予備軍はフリーセックスとか不埒なことを言っていたし、下の世代になると大学をレジャーランドにして不埒なことをしていたこともあって、って冗談ですが、私の世代くらいまでは、結婚というのはまだ性欲とかに結びついていました。富島健夫の青春小説とかまだ読まれていた時代です、って、そんな作家知らないですよね。女性は性的な憧れであり、それは20代中頃くらいまでは、けっこう幸せ

  • 英語の動詞には未来形はない: 極東ブログ

    英語についての話。「はてな」にちょっと面白い質問が上がっていた(参照)。 英語について、どうして過去は、過去形とかで表現するのに(wentとか、cameとか。)、どうして未来形は助動詞で表現するのか、歴史的背景や文化的背景から何か理由があったら教えて下さい。 回答期限を早々に打ち切ったのか、掲載されている回答は一件のみ。しかも、その回答はちょっと検討違いのようだ。 ヘブライ語の説明に、神にとっては、すべては、すでに完了した、という、時制などを問題にしない、時間を超越した存在である事を意味し、それは、端的に聖書ヘブライ語の中に表現されている。とあります。 英語もその影響をうけて、すべてはすでに完了したこととして考えて、文法としての未来形というものをもっていないのではないでしょうか。 え?みたいな感じだが、もとネタ「ヘブライ語の超論理性について」(参照)自体、愉快な説明だ。 ヘブライ語は、伝言

  • 「徒然草」を読む: 極東ブログ

    このところ、「徒然草」を読んでいた。学生のころやその後も折に触れて読んでいるのだが、今回は少し違う。現代語訳のない岩波文庫「新訂 徒然草」のを買ってきて、原文のままつらつらと読んでいた。 歳を取るにつれ、不思議と古文がそのまま読めるようになってきて、古文を読むのが楽しい。古文は現代訳を気にせず読むのがいいものだ。と、もちろん、鎌倉時代から南北朝時代の日語なのですべてわかるわけでもないが、文庫の注であらかたわかる。 いろいろ思うことがあった。一つは、兼好法師も日人だなということ。それは、つまり、自分も日人だなということでもある。ものの感受性や批評性というのが、実に、日人という以外ないようなありかたをしている。「家にありたき木は、松・桜。松は五葉もよし。桜は一重なる、よし。」ああ、まったくそのとおりだ。 七百年近くも前の人なのに、日人であるという感性ことはこういうことかなと感慨深い。

  • 記録としてのブログと、ブログを読み返すこと等々について :Heartlogic

    記録としてのブログと、ブログを読み返すこと等々について 先日の「「ブログを毎日書け」と言われて「よし毎日書くぞ!」と思ったら負け」へいただいた反応について、いくつか。 記録としてのブログ このエントリーに関しては「私は、ブログを書くことの第一の意義は「外化」と「メタ認知」であると考えているので~」云々と途中にお断りをしているので、そこを含みつつお読みいただけると……と言い訳する一方で、「記録してのブログ」という、ごく基的なスタイルについては考えていなかったことは白状しておかなくてはなりますまい。 言葉どおりの「日記」のような形のブログは、私にはどうしても書けず、過去に何度も挫折してきました。これはたいして自信のある仮説ではないんだけども、何かの記録を取り続けるには対象に対してある程度の「愛」的なものが必要であり、私は私自身に対するそれがまるでなかったので(今はちょっと違うかもしれない)、

  • まあそうだね - finalventの日記

    ⇒記録としてのブログと、ブログを読み返すこと等々について :Heartlogic 私は極東ブログのほうは、風俗というか時代の記録というか、時代のなかに生きた人間がどう思ったかという記録というか歴史資料にでもと思っている。 実際に4年も書いているといろいろ思うことがある、というか、ある意味、ますます浮世離れしてきている。 「通じないもんだ」とぼやく反面、「通じないわけがないよな」というのはある。私自身、20年前、30年前、40年前、いろいろな人の言葉を静かに深く読んでそれがその年月を掛けて通じてきている。まあ、この話もどうでもいいや。 ついでに。 若い世代と通じない感はあるし、どうも、爺という先入観で見られるというのもあるだろうが、それと区別されるものでもないけど、ある種の、「当にこいつ人生オワタだなこうなりたくないな」リアリズムみたいのを若い人は避けたいだろう。と、いうのと、さすがに言葉

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