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ブックマーク / arisan-2.hatenadiary.org (4)

  • 『物語消費論改』 - Arisanのノート

    http://japan.hani.co.kr/arti/politics/14547.html http://jp.wsj.com/article/JJ12654974330373834182517348444972986615170.html http://japanese.joins.com/article/789/170789.html こうした政治家たちの行動や言動を見ていると、これは外交問題に限らないのだが、彼ら自身の政治上の目的があからさまになったということだけでなく、それを支持する有権者たちがファシズムと階級差別や侵略・植民地支配の時代の再来を熱望していて、政治家たちはそれに半ばひきずられるように、あからさまなファッショ化の身振りを嵩じさせることを止められずに居るという印象を受ける。 政治家たちに気でファシズムや戦争の時代を引き受ける覚悟があるかどうかには関係なく、こうし

    Imamu
    Imamu 2013/04/25
    「80年代以後の、サブカルチャーとポストモダンの時代を根底で支配していたのは、この母胎的な「無」(天皇制)への回帰の、密かな願望だった」
  • デリダ『歓待について』 その2 - Arisanのノート

    歓待について―パリのゼミナールの記録 作者: ジャックデリダ,Jacques Derrida,広瀬浩司出版社/メーカー: 産業図書発売日: 1999/12メディア: 単行購入: 2人 クリック: 36回この商品を含むブログ (11件) を見る 前回も書いたように、このに収められたデリダの議論で、ぼくがもっとも注目するのは、彼が「歓待」を「欲望」の問題として、家族的な共同体における権力というテーマと重ねて考えている点だ。 「家族的な」という言葉の意味は、後で出てくる「父的でファロス=ロゴス中心主義的な婚姻のモデル」というデリダの表現に重なり、オイディプスとヘーゲルの思想が、とりあえずそれを代表するだろう。それはどこかの地域の歴史や現在の社会のなかというより、われわれの内部にあって今われわれを呪縛している共同性のモデル、ということだろうと思う。 ぼくにはこれは、非常に今日的な問題に思える。

    デリダ『歓待について』 その2 - Arisanのノート
    Imamu
    Imamu 2012/09/16
    「すべての人間が死者の人質なのです」「主人が客の到来を欲望し、客を歓待することを欲望するのである、自己の権力のために」
  • サルトルの「自己欺瞞」論 - Arisanのノート

    『存在と無』(ちくま学芸文庫)のなかの第一部第二章では、「自己欺瞞」という心理現象の分析をとおして、人間の意識のあり方に迫る試みが行われている。 この部分がたいへん面白いと思ったので、ここにメモしておきたい。 まず、これはとても重要なことだが、サルトルはここで、嘘や虚構と、自己欺瞞とを明確に分けている。 嘘をつく人の内心の気持ちは、肯定的である。つまりその気持ちは、肯定的判断の対象ともなりうる。嘘をつく人は、だます意図をもっているのであり、この意図を自分に隠そうとはしないし、意識の半透明性をおおい隠そうともしない。(p173) 虚偽は一つの超越的な行為である(p174) この「意識の半透明性」というのがよく分からないのだが、まあいいだろう(「無」が関係してるのだろう。)。 ともかくサルトルがここで問題にするのは自己欺瞞であって、嘘(虚偽)や虚構ではない。自己欺瞞は、「超越的」ではない。私が

    サルトルの「自己欺瞞」論 - Arisanのノート
    Imamu
    Imamu 2009/10/14
    "虚偽-超越的/自己欺瞞-not超越的"『「誠実」を主張する友人は~「本質」を有する人間であると当人に認めさせることで、自分にも同様の傾向や過失を行う「自由」があるという不安から逃避することを目論んでいる」
  • 「環境管理型権力」と「タコツボ化」 - Arisanのノート

    きのうは、東浩紀氏が述べている「環境管理型権力」ということについてかんがえたわけだが、これと「タコツボ化」ということとの関連については書けなかった。そこで、今日はそれについてかんがえてみよう。 これは言うまでもないことだけど、念のために書いておくと、ぼくが、ここにに書いてあることの紹介などを書くのは、こういう事柄に関してはこういう参考文献があるという情報を紹介したいという意味合いもある。理解力という点でも、実践的な問題との関連付けという点でも、ぼくよりもこれを読んでいる人たちの多くの方が、きっとぼくよりもすぐれているだろう。だがたまたま、ぼくが知っているを、その人たちが読んでいないとか、読んでいても素通りしているという場合があるかもしれない。その可能性をかんがえ、少しでも助力ができればいい、ということもかんがえているのだ。これは、当に微小な可能性だが、それを信じることが張り合いになる

    「環境管理型権力」と「タコツボ化」 - Arisanのノート
    Imamu
    Imamu 2007/01/20
    『複数帰属と「使い分け」』/『環境管理型権力と解離的状況』/『想像力と共感は異なる』
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