2.「僕達は週刊DANDYを発行します」編集部一同が宣言した (1) 年が明けて1974年1月、その機能的外観から「軍艦島」と呼ばれた三菱端島炭鉱閉山のニュースが巷に流れていた。 それとは全く何の関係も無く、深沢全共闘、兼新聞委員のアガタの発案のもと週に1度、2年4組内に限って機関誌を制作、発行する運びとなった。 全共闘とは言っても、所謂学生運動のピークは既に過ぎており、学内にその流れを汲む3年生が数名いて、ヘルメットにタオルの覆面というお約束の装束に身を包み、入学式等に出没してはビラを配ったりする他は、特に目立った活動はなかった。そしてその連中の拠点が新聞委員会の部屋だった。 因みに、校則では一応制服を定めていたが、生徒の大半は着用せず、主流はVANやKENTに代表されるアイビールック。それ以外の者はパンタロン(当時ベルボトムという言い方はしなかった)のGパンに長髪というスタイルで登校し