インパール作戦は大東亜戦争時、連合軍の補給路である「援蒋ルート」を遮断するため、英軍の反攻拠点だったインパール攻略を目的に1944年3~7月に実施された作戦です。 日本陸軍は3師団で約9万人を投入しましたが、食料や薬、武器弾薬の補給の見込みもないずさんな計画に加え、地形的にもミャンマー、インド国境に横たわる標高2000m級の山岳地帯、森林、河川を超えての無謀な作戦が強行された結果、全軍壊滅状態に陥り、1師団の独断退去を機に作戦が中止されました。 戦場は隣のコヒマにまで及び、山々、谷、街道にはおびただしい数の日本兵の遺体が横たわりました。退却路となったインパールからコヒマに至る現在のアジアハイウェイ1号線は「白骨街道」と呼ばれたのです。 戦闘に加え、栄養不良、餓死やマラリア、コレラ等が原因で、帰還兵はわずか1万2000人ほど。「大東亜戦争で最も悲惨で愚劣な戦い」とも「世界の陸軍史上最大の汚点