16日に引退した新幹線300系は、東海道新幹線の歴史を変えた車両だった。東海道新幹線は開業以来、速達型の「ひかり」と各駅停車の「こだま」の2種類を運行していたが、300系は3番目の種別「のぞみ」を運行するために作られた。最高時速270kmを達成し、ちょうど20年前の1992年3月14日に営業運転を開始した。 その一番列車「のぞみ301号」は、新幹線史上唯一の停車駅パターンとなっていた。なんと名古屋駅と京都駅を通過していたのだ。東京駅6時0分発、新横浜駅6時15分着・6時16分発、新大阪駅8時30分着。当時、「ひかり」さえ一部の列車しか停まらなかった新横浜駅に停まる一方、名古屋駅と京都駅は通過した。この扱いに名古屋の人々は激怒したという。この扱いは約5年8カ月も続き、1997年11月に「のぞみ301号」は廃止された。 東海道新幹線の新時代を築いた300系 鉄道路線に新型車両を投入する理由は、
球団の売却やチーム名の問題など、最近なにかと話題の横浜ベイスターズ。その本拠地といえば、横浜大洋ホエールズ時代より使用する横浜スタジアムです。現在のスタジアムが使用開始したのは1978(昭和53)年で、これに合わせて大洋ホエールズも本拠地を移し、横浜大洋ホエールズとなりました。 そんな横浜スタジアムのすぐ横を走るのが根岸線。いまから32年前の1979年まで、京浜東北・根岸線の103系に混じり、「ハマ線」こと横浜線で使用される茶色の旧型国電も走っていました。当時の写真をご紹介しましょう。 横浜線では、日中、根岸線磯子駅まで直通運転する列車が12往復設定されていました。うち4往復が茶色の旧型国電73形で運転されており、中にはたった4両で根岸線を走る電車もありました。根岸線内の駅では、10連用の長いホームに4連の横浜線八王子行が停車するたび、みんな唖然としつつも、ドアを目指していっせいに移動を始
72系旧型国電の走行音です。録音は1979年8月、区間は根岸線の桜木町-根岸間で、翌月に引退を控え、最後の活躍をしていたときのものです。録音はSONY製CF-6300というステレオラジカセで、ところどころ風の音が入って聞きづらいところもありますが、ご容赦ください。なお、録音前半より後半4~5分過ぎからのほうが力強い釣り掛け音が聞けます。 0:06 桜木町停車 0:29 桜木町発車 1:48 関内停車 2:20 関内発車 3:42 石川町到着 4:06 石川町発車 5:53 山手到着 6:12 山手発車 Sound and pictures of the series 72 train by former Japanese National Railway in August 1979.
日頃よりDD54の当動画を御覧戴いてありがとうございます。 この動画は10年ほど前に編集したもので、機関車のナンバーも読めないくらいデーターサイズが小さいものでしたので以下にDD54の同じ原画のものを再編集してアップしました。 https://www.youtube.com/watch?v=gP2CVJACfWc&t=81s 中学2年生だった私がシングル8で撮った稚拙な動画に変わりはありませんが、これで少しは見やすくなったと思います。 またハセイクの踏み切りで8mmと並べて撮った写真や、まだまだDD54が元気だった頃の特急「出雲」の写真も以下のブログにありますので、併せて御笑覧いただければ幸いです。 https://ameblo.jp/etopirika-horse/ 箱形ディーゼル機関車DD54が山陰本線の主力機として、また播但線寺前-新井間の勾配区間でC57貨物列車の補機運用で活躍し
日本の玄関、東京駅の歴史的な赤レンガの駅舎がまもなくリニューアルオープンします。 それに先立ち、27日には、中で開業するクラシックホテルが公開されました。 新しい駅舎はどのような建物なのか? ホテルの魅力は? 社会部の築山文崇記者が解説します。 歴史的な駅舎を復元 JR東京駅の赤レンガの駅舎は、今からおよそ100年前の大正3年、明治建築界の重鎮、辰野金吾の設計により建てられました。 当時は3階建てで、北側と南側にドーム型の屋根がありましたが、終戦間際の空襲で焼け落ち、その後、2階までの残った部分に、別の形の屋根を付ける形で修復されました。 平成15年には、国の重要文化財に指定され、JR東日本は歴史的な建造物を本来の姿で未来に残そうと5年前から建設当時の姿に復元する工事を続けてきました。 シンボルは2つのドーム ことし4月には、工事のために施されていた囲いがほとんど外され、シンボルで
山陽新幹線の新大阪‐岡山間が開業して15日、40周年を迎えた。兵庫県内には新神戸、西明石、姫路、相生の4駅が設けられたが、平均駅間距離は約21キロしかなく、先に開業した東海道新幹線の約43キロ(当時)の半分にも満たない。集中的に駅が並ぶ背景を探っていくと、幻に終わった「夜行新幹線計画」にたどり着く。(小川 晶) JR姫路駅の新幹線ホームに立つと、東京方面と博多方面で乗り場の数が違うことに気付く。東京方面は11番線だけだが、博多方面は12、13番線と二つある。 大半の列車は12番線に発着し、13番線を使用するのは早朝、深夜の3本のみ。1972年3月の開業に合わせて国鉄が発行した工事誌には、13番線について「夜行列車の待避線として設備された」と記されている。 夜行新幹線計画は、新大阪‐岡山間の開通を前に国鉄が検討を開始。66年の「山陽新幹線技術基準調査委員会報告」では、東京‐博多間を一晩で計2
姫路市営モノレールは、姫路駅、大将軍駅、手柄山駅のたった2区間を走っていたモノレールである。1966年に手柄山公園で開催された「姫路大博覧会」のための輸送機関として開業、wikipediaによれば当初は鳥取まで(!)の壮大な延伸計画もあったようだが、博覧会後に利用者が激減、モノレール事業を推進してきた市長の交代や、車両を作っていた日本ロッキード・モノレール社の解散などもあり1979年には多大な赤字を残して正式廃業してしまった。そんなわけで、現在これらの橋脚のすべてがいつ撤去されてもおかしくない状態にある。 という話をきいて、私が想像していたのは、ただひっそりと物陰に佇むコンクリート柱の姿だった。ところが現地へきてみれば、この橋脚、ただの廃線橋脚じゃない。建物からはえてみたり突っ込んだり、なんだかやりたい放題だ。
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