ブックマーク / funuke01.cocolog-nifty.com (4)

  • 【雑記】・「テレビが終わった、とか言ってるやつら」 - ふぬけ共和国blog

    テレビ評」というものは、私の記憶で言えば80年代以前にはナンシー関出現以前には成立していなかったし、ナンシー関は「テレビ評」の黎明期の人間であって、いつまで経っても「現代のナンシー関」待望論がある以上、テレビ評の未来はないのである。 正確にはネットで「テレビ評」は育ちつつある。 たとえば「テレビのスキマ」なんて、面白くてヤバいだろう。 しかし、現状では今井舞みたいなどうしようもないやつが仕事をもらっているので、テレビ評の前途は暗い。 そんな流れの中で、 「テレビはつまらなくなった」 という論調が、(フジテレビ叩きなども含めて)ネットでは目立つようになった。 ますます、どうしようもない状況だ。 ・その1 実は「テレビがつまらなくなった論」の前がある。 それは「テレビCMを評価するという動きがめっきりなくなった」ということだ。 これがいつ頃からかは、よくわからない。 広告業界が、非常にもては

    【雑記】・「テレビが終わった、とか言ってるやつら」 - ふぬけ共和国blog
    JuliusCaesar
    JuliusCaesar 2016/01/16
    ナンシー関にはもっと長く生きて欲しかった、「衰えた」と言われるところを見たかったから。
  • 【テレビお笑い】・「また出た凡庸バラエティ批判」 - ふぬけ共和国blog

    スギちゃん、飛び込みで大けが テレ朝番組収録中 とにかくスギちゃんには、一日も早く良くなってください、としか言いようがない。大変だなあと思う。 今回、書きたいのはスギちゃんのケガ(事故)そのもののことではない。 この件に端を発し、「テレビがお笑い番組を通していじめを助長している」という主張を読んだからだ。 しかも、それを書いたのが生真面目な人ではない。私が前から、ユーモアのある文章でひそかに尊敬していたエッセイストから発せられた言葉だったので、ショックなのだ。 この問題は意外に複雑なので、一つひとつについて書いていきたい。 ・その1 まず、スギちゃんにかぎらず、お笑い芸人が常に無理なことをやらされて、それを視聴者が見下して笑っている、という固定的な構図があるのだろうか? 体力的に無理をしているのなら、オリンピックの選手でもスタントマンでも同じである。お笑いにだけ「無理をする必要がない」と考

    【テレビお笑い】・「また出た凡庸バラエティ批判」 - ふぬけ共和国blog
    JuliusCaesar
    JuliusCaesar 2012/09/05
    あれでも仮にお笑い芸人やお笑いファンと正面切って論争する気があればまだしも有意義だったかもしれないが、実際には逃げ腰もいいところだった。
  • 【テレビお笑い】・「『内輪の悪ふざけ説』について考える」 - ふぬけ共和国blog

    昼の「お笑い」番組に「内輪の悪ふざけ」もう勘弁しての声出る(NEWSポストセブン 9/21) 毎度おなじみの、この話題。 「批評」として、現在最も立ち遅れているのがテレビ。 逆に言えば「テレビなら何を言ってもいい」と思われている。 ナメられているのだ。 ・その1 一般的に「(芸人の)内輪の悪ふざけ」とされる番組は、おそらくお笑い業界内の力関係や交友関係をスタジオで顕在化させたたぐいの番組だろう。 まさか、当にただ芸人が騒いでいるだけで「悪ふざけ」と言っているのではあるまいな。せめて「芸人同士の関係性」のところにまでは思いをはせてほしい。 しかし、実はテレビが「内輪の悪ふざけ」であったのはここ最近のことではない。 亡くなってしまったが、前田武彦が「夜のヒットスタジオ」で「フランクな司会」をしたのは60年代後半。 現在、ミュージックステーションのタモリ的態度(「最近どう?」的な)にそれは受け

    【テレビお笑い】・「『内輪の悪ふざけ説』について考える」 - ふぬけ共和国blog
    JuliusCaesar
    JuliusCaesar 2011/11/06
    力のあるタレントや作品であればこそ、その深い文脈にも関心を持たせることができる。「タレントや作品」そのものが疎かにされることへの疑惑があるのかもしれない。
  • 【雑記】・「ケータイ小説の分析って、そんなに必要か?」 - ふぬけ共和国blog

    なんか、たまたまネットウロウロしていたらいわゆる「ケータイ小説」を分析したが何冊か出ていて、それの書評が書かれていた。 私は、それらのをまだ読んでない。でもその書評のいくつかを読んですごく気になった。 ・その1 まず、根的な疑問として、なんで「ケータイ小説」を分析しなければならんの? 「ケータイ小説」を分析することの意義は、以下の二点にしかないはず。 ・自分も「ケータイ小説」、あるいは「ケータイ小説的なもの」をリリースして、お金をもうけたい ・明らかに書籍を読まず、通常の文学には指を動かさない「ケータイ小説」の読者の心情を理解し、彼女たちに向けた言葉をつむぎなおして、最終的に世の中をよくすることに役立てる いやホント、笑うところじゃないから。まあ、「ケータイ小説」の読者が奪っているのがマンガの読者か、ライトノベルか、ゲームかはわからないし、商売上の分析をするのはわからないではない。

    【雑記】・「ケータイ小説の分析って、そんなに必要か?」 - ふぬけ共和国blog
    JuliusCaesar
    JuliusCaesar 2008/08/24
    個々の作品の議論に進まない奴が「ケータイ小説全体」の分析にこだわってるんじゃねえよ、ということですね。
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