cinema | 12:52 | 全体とは色々な部分の相互関係の全局面のことであって、そして「相互関係の全局面」をひとつのものや制度や人物や集団や等々で置き換えることはできない。部分には部分の不可侵の存在根拠があり、相互性は何処までも相互性として、関係は何処までも、いくつかのものの間の関係として、単一化できないまま存在する。だからそれらの「全局面」は永久に探求過程そのものとして残り続ける。だから大事なのだ。「部分は部分だ」という、この簡単な常識を忘れるところに全体主義時代の骨がらみの病気が伏在しているであろう。藤田省三『全体主義の時代経験』*1「生涯一ヘタレ」を自認しヘタレを信条とする私であるが、人様の行為に、ときどき「なんだかなぁ」と口にしてしまいたくなるときがある。とあるところで、唐突(としか私には見えなかったが)に「内ゲバ」や「全体主義」という言葉をみてウンザリしてしまった。ほんとう