“この戦争についてロシア社会のナラティブは今後長期間そう変わらないだろうが” アジア太平洋戦争についての日本社会のナラティヴ(の主流)が80年近く経ってもこのザマなのを我々はまず恥じるべきだ。 軍事・戦争と平和 歴史 偽史・歴史修正主義 国際関係 社会 日本社会
南米のブラジル政府は第2次世界大戦中やその直後に、日本の移民を刑務所に収容して虐待したり立ち退きを強制したりした行為について誤りを認めて謝罪しました。ブラジル政府が戦中・戦後の日本の移民への対応で公式に謝罪をするのは初めてです。 ブラジル政府の諮問機関である恩赦委員会は、第2次世界大戦後の1946年以降に独裁的な政権下で起きた人権侵害について調査し、賠償や謝罪をするかどうかの審議を行っています。 25日にはブラジルの警察が1946年からおよそ2年間、日本の移民やその子孫172人をサンパウロ州沖にある島の刑務所に収監したことについての審議が行われました。 収監された人の多くは日本の国旗などを踏むよう強制され、拒否すると刑務所内で虐待や拷問を受けたとされています。 また、戦争中の1943年には、サンパウロ州沿岸部に住む日本の移民などおよそ6500人が24時間以内の立ち退きを強いられていて、日系
その事件は私が1歳の時に起きました。覚えていることはありません。 中国人の父と母は、大きくなってからも私に語ろうとはしませんでした。 中国政府は事件の死者数を319人としていますが、それよりもはるかに多いという指摘もあります。 あれから35年。真相は今も、明らかにされていません。 あの時、私のもう1つの祖国で、何が起きたのか。 (中国総局 高島浩) 私の祖母は日本人です。満蒙開拓団として旧満州に渡りました。 戦後、帰国できずに大陸に残った「中国残留婦人」で、養子に出されていた中国人の男の子を引き取り、育てました。のちの私の父です。 父は中国人の母と結婚。1988年に中国東北部・黒竜江省で私が生まれました。そして6歳の時、国の援護事業のもと家族4人で帰国し、私と両親は日本国籍を取得しました。
記事:平凡社 パレスチナ・イスラエル問題に関するオンラインセミナー「パレスチナ連続講座」に登壇する東京経済大学教授の早尾貴紀さん 書籍情報はこちら ヨーロッパ植民地主義を反復するイスラエル イスラエルは1948年の建国の際に、およそ500のパレスチナの村や町を破壊し、住んでいた人々は難民となって周辺の地域に逃れました。とりわけガザ地区は住民の70%以上が難民という状況が生じました。 1967年から軍事占領されたガザ地区では、抵抗運動とそれに対する弾圧、空爆や侵攻も繰り返されてきました。2000年代からは陸海空の封鎖が強化され、ガザ地区は外部との出入りがほぼできない「巨大監獄」のような状態に置かれています。2023年10月7日の武装蜂起は、このような軍事占領に対する最終的な一斉蜂起、最後の抵抗でした。 それを受けてイスラエルは大規模な空爆、侵攻、虐殺を始めました。抵抗運動を組織してきたハマー
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