連続講座のようになってきた。今回が第3回となるのか。 まず、日本では宗教を「こころ」の問題と捉えることで、イスラーム教の律法主義的な原則が捉えにくくなる。 それに対して、欧米のリベラル派は、リベラルな価値観が普遍的だと信じるあまり、「本当のイスラーム教はリベラルで、リベラルではないイスラーム教徒は何か間違っている、物質的原因によって強制されているのか、教育が足りない」と思ってしまう。さらには「イスラーム教がリベラルではないと分析する観察者はオリエンタリズムだ、イスラーモフォビアだ」と断定してしまって、現実に目を向けなくなる。 日本と欧米である種の論者がそれぞれ囚われているバイアスが、イスラーム教を見えにくくしている。 欧米では、自らの宗教改革の歴史を普遍的なものと捉え、世界に適用してしまうことで、イスラーム教徒が抱えている思想的課題が見えにくくなるという、もう一つ別のバイアスもある。 これ
昨日の「「こころ教」のガラパゴス」(2015年6月10日)が随分シェアされて、いいねが1100を超えている。イスラーム教の宗教規範について、日本の規範と対比させることで理解しやすくなった人もいるのではないか。 日本では「こころ」に特化した宗教認識が広がることで、それを「常識」「普遍」と受け止めてしまい、それに合わないイスラーム教が「宗教ではない」ように見えてしまったり、「真のイスラームはそんなものではない、もっとひとりひとりの『こころ』を大事にしたものであるはずだ」と強弁して中東の現実から目を閉ざしたりしてしまう。 これについては、読んだ人自身が思い当たるところがあったのではないだろうか。イスラーム教をなんとか知ろうとして手に取った本にそんなようなことが書いてあったりもしたはずだ。 少し構図は違うのだが、欧米でも固有の条件下で同様の障壁があり、認識や議論が阻害されている。欧米の議論は日本で
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