2015年9月に32歳で入学してから、半年の休学を経て2年半。30代といえば、結婚、転職、昇進など、さまざまな岐路に立たされる時期でもある。 私の場合、「大学院に通う」と決断するまで3年もかかった。転職してハフポストに入社もした。そんな私が、なぜ最終的に社会人大学院生になる道を選択できたのか。その理由や学生生活を振り返ってみる。
![32歳で大学院生になった。背中を押したのは、父が遺した「やりたいことリスト」だった。](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/81299b4ff08c248a1f37c17f9f6f4a4571305669/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fimg.huffingtonpost.com%2Fasset%2F5c63090b2500003502c7c17a.jpeg%3Fops%3D1200_630)
お久しぶりです。ひでみです。あまりにも久しぶりなので自己紹介させていただくと、フリーランスでプログラマをやってる55歳です。そうなんですよ。55歳になったんですよ。55歳からは「アラウンド還暦」略して...
5年前、40歳で早期セミリタイアに入った。 諸事情があってその時点で持っていたのは現金1600万円のみ。 年金は国民年金を全納すれば月10万円は65歳から受け取れる見通し。 独身、子なし。 まず中古公団団地の一室を購入した。築45年だったが、メインテナンスはしっかりしてあって、まあ、二十年、三十年は問題なく住めそうだった。 ちなみに立地は首都圏の政令指定都市である。 エレベーターのない5階というのは難点だが、運動をしていると思えばいいだろう。ネットスーパーもあるし。 大型団地なので、役所や図書館、病院、公園、スーパーが整備されていて、環境はいい。 経費込みで200万円だった。管理費が月々2万3千円。 それまで住んでいたマンションの家賃が8万円だったので3年住めば十分に元は取れる金額だ。 首都圏にはこういう物件が多数ある。セミリタイアにおいて家賃はネックになるので、こういう物件を探して生活費
虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA) Amazonで購入するこの記事の写真をすべて見る 「3回生まれ変わってもこんなにすごいものは書けない」。宮部みゆきがその才能に嫉妬した、伊藤計劃。読めばあなたも、その息遣いを感じるはずだ。 その日の夕食がカレーだと聞いた伊藤聡は、「じゃあ、食べてみる」とベッド脇の母親に言った。もう何日も食欲がなかった。母の和恵(70)がスプーンでカレーを口元に運ぶと、伊藤はそれを口に含んだ。数さじ分だったが、和恵はそれでもうれしい。 「ああ、久しぶりに食事ができてよかったわね」 それが、母が息子にかけた最後の言葉になった。伊藤のがんはこのとき、全身の6カ所に転移していた。もはや外科手術で取り除くことは難しく、抗がん剤や放射線治療が頼り。モルヒネを飲みながらの闘病だった。 2009年3月20日。そんな苦しみの日々が終わった。8年半にわたってがんと闘った伊藤は「眠るように、すー
私の愛しいアップルパイへ 私があなたのことを「アップルパイ」と呼ぶのはこれで何回目でしょうか。1回目でしょうか。100回目でしょうか。 いえ、そんなことはさして重要ではありません。いずれにしても、あなたには私のことをもっと深く知って欲しいと思っていたところです。 システム系の専門学校を卒業してから6年半、「システム屋」として会社に勤めていました。金融系のインフラ系システムエンジニアとして生きてきたこの細く緩やかな生活の中心には、私自身をいつでもビフテキに出来るほどの情熱のマグマがありました。“夢”というやつです。 私の”夢”、私の”魂”そのもの、それは「音楽家」として”音楽なるものを少しでもマシにすること”です。24時間の全てを”音楽なるもの”に捧げることです。この世で唯一の神のもの!かの、、、「芸術」に!! そして2012年9月25日、この愛すべきブログを開設してからちょうど1年が経った
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