タグ

関連タグで絞り込む (1)

タグの絞り込みを解除

歴史書に関するKatagiriSoのブックマーク (4)

  • 釈日本紀 - Wikipedia

    著者は卜部兼方(懐賢)。著作年代は未詳だが、平野社系卜部家であった兼方の父兼文が、文永元年(1264年)または建治元年(1275年)に前関白一条実経らに講義を行った[1]。このときの説話に、奈良時代以降の数々の『日書紀』注釈史料を参照して編集したとする。正安3年(1301年)には写が確認でき[2]、つまりはこの20余年の間に編まれたと考えられる。 史料には『上宮記』、『日紀私記』、『風土記』、『古語拾遺』、『天書』、『安斗智徳日記』、『調連淡海日記』、『先代旧事紀』等、現在では散逸している書物を参照しており、これらを逸文として残している。『日紀私記』などは、奈良から平安初期の朝廷でしばしば行われた『日書紀』の訓み方の講書記録にすぎなかったが、兼方は卜部家に伝わる家説に諸種の私記を併せ、解題・注音・乱脱・帝王系図・述義・秘訓・和歌の7部門に分け、兼方の厳密な書紀原文解釈の集大成と

    KatagiriSo
    KatagiriSo 2014/09/07
    鎌倉時代の日本書紀の注釈書
  • 上宮記 - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "上宮記" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2010年2月) 『上宮記』は、7世紀頃(推古朝か)に成立したと推定される日歴史書である。『日書紀』や『古事記』よりも成立が古い。鎌倉時代後期まで伝存していたが、その後は散逸し、『釈日紀』・『聖徳太子平氏伝雑勘文』に逸文を残すのみである(『天寿国曼荼羅繍帳縁起勘点文』所引の「或書」も上宮記と見なす説がある)。特に『釈日紀』巻十三に引用された継体天皇の出自系譜は、『古事記』・『日書紀』の欠を補う史料として研究上の価値が高い(この系譜は「上宮記曰く、一に云ふ~」の形で引用

    KatagiriSo
    KatagiriSo 2014/06/01
    散逸した。古事記より古い書。
  • 紀伝体 - Wikipedia

    紀伝体は以下のような項目から構成される。「紀伝」の名称は、このうち上位に位置づけられた2項目、「紀」と「列伝」に由来する。 紀(ほんぎ) 皇帝や王などの支配者に関した出来事を年毎に記述する。武田泰淳が「世界の中心の記録である[1]」と言ったように、皇帝などの支配者を中心とした世界史(例えば倭国から朝貢があった場合もそれについて記す[注釈 1])である。『史記』の「高祖紀」「秦始皇紀」など。 紀に載っている皇帝は実情に関わらず、「世界の中心」であることが求められている。従って、中国全土が太古の昔から秦漢帝国のごとく統一されていたかのような記載になっている。現代の歴史学では、『史記』の夏紀・殷紀などの頃に秦漢帝国のような強大な権力を持つ漢民族の国家があったわけではないとされているが、紀では儒教の正統思想(中華思想に基づいて実態と異なる記載がなされていると、歴史学者の岡田英弘は述

  • 日本外史 - Wikipedia

    『日外史』(にほんがいし)は、江戸時代後期に頼山陽が著した国史の史書(外史とは民間による歴史書の意)。源平2氏から徳川氏までの武家盛衰史で、すべて漢文体で記述されている。文政10年(1827年)、山陽と交流があった元老中首座の松平定信に献上され、2年後に大坂の秋田屋など3書店共同で全22巻が刊行された。明治以後、日語口語体に訳されたも数社から刊行されている。幕末から明治にかけてもっとも多く読まれた歴史書である[1]。 前漢の司馬遷が著した『史記』の体裁にならい、武家13氏の盛衰を家別・人物中心に記述している[2]。20代だった寛政12年(1800年)、脱藩後の幽閉中に書き、放免後に推敲を重ねて文政9年(1826年)に完成させた[2][3]。全22巻 12冊。 平安時代末期の源氏・平氏の争いから始まり、北条氏・楠氏・新田氏・足利氏・毛利氏・後北条氏・武田氏・上杉氏・織田氏・豊臣氏・徳川

  • 1