考古学者を夢見る考古学者のたまご「たまごちゃん」が、があこ先生と一緒に福岡の遺跡を学んでいくシリーズ「おしえて!があこ先生」。 第8回目のテーマは「ネコ」です。 8月8日は、「世界猫の日」。 世間では空前のネコブームですが、たまごちゃんはネコに追いかけられて大変な目にあったそうで...
平安時代末期、法隆寺(奈良県)の僧たちによって書写された「法隆寺一切経」を、福岡市早良区内野の京仏師、高井〓玄(そうげん)さん(60)が9日、公開する。現存する一切経の多くは巻物だが、高井さんが所有するのは、引き戸の全面に張られて残された珍しいもの。福岡市中央区の警固神社で、高井さんが門下生と開催する作品展の会場に展示される。12日まで。 法隆寺一切経は、11世紀末から12世紀初めにかけて、約30年にわたって書き写された仏教の経典の集成。現在、法隆寺に約1000巻が所蔵され、その多くは国の重要文化財に指定されている。その一方、同寺から民間に約400巻が流出しているとされる。 高井さんは昨年、古美術商から一切経を購入。縦47センチ、横66センチの木の引き戸4枚に張られており、そのうち1枚の端に「法隆寺一切経」と方形の刻印がある。流出した一切経は各地の寺院や収集家の手に渡り、行方が分からないこ
大師像(遍照院) 篠栗四国八十八箇所(ささぐりしこくはちじゅうはちかしょ)とは、福岡県糟屋郡篠栗町にある、空海(弘法大師)を拝する88か所の霊場の総称である。篠栗八十八箇所または単に篠栗霊場とも呼ばれる。小豆島八十八箇所、知多四国霊場と共に、「日本三大新四国霊場」に数えられることもある。札所は、福岡市から東に12㎞に位置し、国道201号を挟む両側の山麓や谷の奥に点在する。1970年頃には年間50万人の遍路で賑わい、遍路宿が53あったが、その多くは農家が兼業で経営しており、農繁期は泊まることはできなかった[1]。 歴史[編集] 篠栗霊場の歴史は、慈忍という人物がこの地を訪れた1835年(天保6年)に始まる。慈忍は四国八十八箇所を巡拝したその帰りに篠栗村に立ち寄った尼僧であった。四国八十八箇所の開祖たる弘法大師も訪れたと伝わるこの村の者達の困窮を垣間見た慈忍は、その救済を目論みこの地にとどまり
福岡市博物館で9月12日(金)~11月3日(月・祝)黒田武士の世界「黒田長政と二十四騎展」が催されます。来年は初代福岡藩主黒田長政生誕440年ということで博物館ではかなりの力の入れようで期待できそうです。母里太兵衛の名槍「日本号」の本物を真近に見て、しばし黒田武士の世界に迷い込みましょう。その間10月20日(土)は光雲神社で遷座100年記念祭も催され母里家のご子孫母里市兵衛忠一氏の呼びかけで全国の黒田武士の縁りの方々が一同にお集まりになるとの事です。今、黒田官兵衛、長政、母里太兵衛を始めとする戦国時代に輝かしい足跡を残した黒田武士はその歴史的な活躍に全国の歴史フアンの注目が集まっています。書籍も次々に発行されています。如水の遺訓を読み処世術や組織を運営する上で大切なことを学ぶことができるのは、如水が並みの武将ではなかったことの証でもあります。
観世音寺(かんぜおんじ)は、福岡県太宰府市観世音寺五丁目にある天台宗の寺院。山号は清水山。本尊は聖観音[1](しょうかんのん)。開基は天智天皇である。九州西国三十三箇所第三十三番札所。 九州を代表する古寺で、造営開始は7世紀後半にさかのぼる。奈良の東大寺・栃木の下野薬師寺とともに「天下三戒壇」の1つに数えられる。平安時代以降は徐々に衰退したが、仏像をはじめとする文化財を豊富に有する。 歴史[編集] 九州随一の仏像彫刻の宝庫である観世音寺の縁起は伝わっておらず、関連文書として最も古いものは延喜5年(905年)成立の「観世音寺資財帳」(東京藝術大学所蔵、国宝)である。 『続日本紀』の記述によると、観世音寺は、天智天皇が母斉明天皇の追善のために発願したという。斉明天皇は661年に没していることから、それからほどなく造営が始められたと推定される[2]。『二中歴』には観世音寺創建は白鳳年間(661年
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