ブックマーク / kasasora.hatenablog.com (64)

  • 烙印の取り扱い - 傘をひらいて、空を

    出産した友だちと半年ぶりに会うことが決まる。難産だったと聞いていて、けれどももうすっかり元気だと人からのメッセージのには書かれている。だいじょうぶかなと私は思い、それから、人に任せようと思う。彼女に家にいてもらって私がそこを訪れてお粥をべさせていたら私は安心だろうけれども、そんなの私の安心のためだけのことだ。何たべたいと尋ねると驚くべき早さでパンケーキと返ってきた。打つのが早い、と私は思う。スマートフォンのメッセージがリズミカルに増えていき、あっというまに店と待ち合わせの時刻が提案される。いいのかなと私は思う。人がそうしようというのだからいいのだろうと思う。 当日そう言うと彼女は空っぽになった皿を満足げに眺めてから、それでよろしい、と言った。出産した女は甘いものをべてはいけないというのは都市伝説。すべての産婦に押しつけるような科学的根拠があるものではない。私は犬みたいな顔してほう

    烙印の取り扱い - 傘をひらいて、空を
    LethalDose
    LethalDose 2014/11/04
    “出産した女は甘いものを食べてはいけないというのは都市伝説。”この話、初めて聞いた。烙印をレッテルという意味で使っているのですこし違和感あり。
  • おまえはきっと帰らない - 傘をひらいて、空を

    四捨五入して四十ともなると親の介護が話題にのぼる。女ばかりでかこんだテーブルの、見慣れた顔のひとつが言う。みんな、まだまだ先だって思ってるでしょう、うちの親はまだ若いから、元気だからって。むしろ子育ての戦力に数えてたりしてね。親もその気で、事実、元気なんでしょう。でもねえ、六十過ぎたらガタは来るのよ。確実に来る。人間は年をとって、とるごとに弱って、それで死ぬのよ。みんなしんとしてそれを聞き、はーっとため息をついた。 私はその顔のなかにひとつだけ平然とした顔をみつける。そうかと私は思う。彼女は家出人なのだった。介護もなにも、生家と音信不通で、結婚もしていないから義理の親というものもいない。事情を知っているもうひとりが言う。そうはいってもいざ実の親が介護が必要な状態になって、それでも放っておくのは、けっこうきついんじゃないかな。私は、子どもにろくなことしなかった親にまで孝行しろとは思わないけど

    おまえはきっと帰らない - 傘をひらいて、空を
    LethalDose
    LethalDose 2014/10/14
    “いくら親に否があっても、罪悪感ってなかなか手強いし”うーん。どうなんだろう。ひどい目に合っていればその人がどんな目にあっても罪悪感はあまりないかも。彼女が罪悪感を抱かないことに違和感はない。
  • 卑しさを弁別する - 傘をひらいて、空を

    久しぶりに連絡があったので彼女の好きなビストロを予約しようとしたらそれはいいと言う。どうしてと訊くと節約したいというのでうちに来てもらった。身なりはあいかわらず華やかだ。手土産持ってきたら節約にならないからねと言ったのに、有名な果物屋のおそろしくきれいな梨を持ってきてくれた。いくらなんでも手ぶらで人の家に行くほどの節約は要らないと彼女はこたえて、笑った。私も笑って、それから彼女が十年前から住居の購入を考えていたことを思い出して口をひらく。もしかして、いよいよマンションの頭金がたまったの。いいえ、それどころか頭金のための預金、解約しちゃった。 私は彼女を見る。他人のお金の使い途を質問するのは品のないことだ。けれども彼女のようすは多少下品になってもいいと思わせるくらい好奇心をそそった。浮き足立って、そのくせどこかしら醒めている。同じ独身の中年でも野放図に年を取ってへらへらしている私とはちがう、

    卑しさを弁別する - 傘をひらいて、空を
    LethalDose
    LethalDose 2014/10/07
    “卑しいと思うか訊かれたら、えっと、まあ、イエスなんだけど、でも、そのイエスは、恋がなにかを免罪すると思いこんでいる人たちに対するのとは、ずいぶんちがうものだよ。”もう少し詳しく聞きたい。
  • だめになった女の子 - 傘をひらいて、空を

    実名で登録するSNSは登録したきりでほとんど使っていなかった。けれども最近、年賀状を出しているかと尋ねられ、いいえと答えたらせめて実名SNSをやれと言われた。あれは年賀状である、と。なるほどと思った。省力化され年に何度出してもよく出さなくてもよい、年賀状。 以前よく使用していたパスワードでログインしそれを今使用しているものに変え(私は多くのサービスで五種類のパスワードを使用し定期的にそれらを更新する)、溜まっていたリクエストのうち知人であることが確認できたアカウントを片端から承認し、次いで「友だちでは?」というレコメンドのうち知人であることが確認できたものに片端からリクエストを出していく。ほどなくそれらは承認され、私はみんながまめにSNS上で活動していることにぼんやりと感心する。うんと古い友だちからメッセージが入ったりして少し楽しかった。四人目までは。 メッセージをくれた四人目は中学のとき

    だめになった女の子 - 傘をひらいて、空を
    LethalDose
    LethalDose 2014/09/23
    “すごいねえ、ひとりで生きていくんだ、えらいね、私ぜったいできない、私がそんなだったらみじめで死んじゃう。”他人の不幸は自分の幸せではないと考えて、こういう人とはできるだけ関わらないよう努力する。
  • あまい真綿 - 傘をひらいて、空を

    彼は仕事でへとへとに疲れて、彼女に連絡すると言ったことを忘れる。起きると彼女からメッセージが入っている。昨夜どうしたの?具合でも悪い?彼は返信する。だいじょうぶ。ごめんね。だいじょうぶならよかったと彼女は送りかえす。そのようなことが何度か起きる。あなたってほんとにいいかげんねと彼女は笑う。彼も笑う。 彼の仕事は先が読めないので、彼の予定はよく変わる。彼は彼女にそれを告げる。ごめんねごめんねと彼は言う。仕事なんだからしかたがないでしょと彼女は言う。笑って言う。そのうち彼もそう思う。仕事なんだからしかたがない。それからやがて、しかたないとも思わなくなる。予定が立たないならはじめから伝えなければいいのだ。それは当たり前のことで、だから意識なんかしない。 予定がつぶれても彼女に会いたいので、時間ができた日に彼は彼女にたずねる。今日行ってもいい?彼女は承諾する。彼は喜ぶ。やがて喜ばなくなる。それは当

    あまい真綿 - 傘をひらいて、空を
    LethalDose
    LethalDose 2013/12/17
    “私は、自分を見下して無礼をはたらく人間に常識をわからせるためにそういうみっともないことをしてあげなきゃいけないとは、思わない”
  • 透明な要求を捨てる - 傘をひらいて、空を

    癒されるねえ、と彼は言う。なにそれと彼女は訊く。なにって、つまり己の身の裡の回復が亢進し快いですね、という意味です。彼はそのように説明し彼女はからだの半分で寝返って皮膚でもって壁の温度を吸う。視界を走査する。たっぷり泳いだあとのシャワーの水分の空気に溶けたのと、半分ずつあけたビールの缶と、さっきまでのうたた寝の気配と、そのほかのなにも見あたらない。視線を内側に向ける。ちいさい刺をみつける。その輪郭を描写する。 癒した覚えゼロだし、私なんにもしてあげてないし、だいいち癒しとかそういうの、嫌いなんだけど。だけど、と彼はその語尾を引きとる。だけど俺はそれを口にしたので、それであなたは。それで私は、不可解でやや不快、だと思う。不快になることない、と彼はねむたくて気持ちいい声のままで言う。だってあなたの嫌いな癒しは俺の言ったこととはなんの関係もないんだ。 癒すなんて下賎な言い回しだよ、まったくのとこ

    透明な要求を捨てる - 傘をひらいて、空を
    LethalDose
    LethalDose 2013/11/05
    “女の人にあれしてこれしてみたいなのはどんどんなくなる、俺はそういうの、もともと少なかったけど、さらに減ってる。”本当に。あと、勝手に癒される、ではなくて癒える、かな。
  • 愛された子の副作用 - 傘をひらいて、空を

    残業が長引いて駆けこんだ私を、中腰になり片手を挙げて彼はとどめた。走ることなんてないのに、室内で、快適で、お店の人も良くしてくれて、だから急ぐことなんてないのに。元同級生であるだけの私を相手にしても、遅れた待ちあわせに走ることを咎めるような、彼は善良な人物なのだった。 そんなだからもちろん、日の議題について、彼は深々と頭を下げた。申し訳ない、早々にだめになってしまって。私はみっともなく汗ばんだ額を遠慮なく拭い、椅子の背に上着をばさりと投げ、そっくりかえって宣言した。うるせえやい。謝るとか意味わかんない。生は今日なにが入っていますか。せりふの後半で視線を受けた顔見知りのスタッフがにこやかにベルギービールの銘柄を告げる。 未知の生き物みたいにいいにおいのするグラスをぞんざいに掲げて私は口をひらく。おおまかな経緯は聞いてる。私は、ただあなたがたの出会う場を設けたので、あとはふたりが勝手に親しく

    愛された子の副作用 - 傘をひらいて、空を
    LethalDose
    LethalDose 2013/10/15
    “うっそりと笑った”“取り繕うためのすべてのしぐさを放りだして、空咳みたいな音で笑った。”うう。“そんなわけでだめになっちゃったから、また女の子、紹介してよ。”強い。
  • 弱者としてのレッスン - 傘をひらいて、空を

    爆発の音がする。グラスを手に空の光を振りかえって、華やかな戦争みたいだ、と彼女は言う。夜になったばかりの空が赤く光り、緑色がかり、うす青く陰る。部屋の灯りは落とされ、やや過密にそこにいる私たちはたしかに、逃げて隠れているようだった。私は少しだけ動揺して言う。その種の比喩を、私は臆病に避けているんだよね。不謹慎だ、みたいに叱られるから。ほんとうに爆撃を受けている人に申し訳ないと思わないのか、とか。「当事者の身にもなってみろ」と弾劾される事態を避けている。 片方の眉を上げて彼女は笑う。年に一度の大きい花火大会の晩で、彼女の一家が住むマンションのベランダからは、やや遠景にはなるけれども、それを見ることができる。けれどもベランダは幾人もが座れる広さではなく、外気は日が暮れても有害なまでの熱を有して、だから火花に飽いた者は順繰りにリビングに入って、よく働く空調が吐き出す空気と控えめな灯りのなか、水滴

    弱者としてのレッスン - 傘をひらいて、空を
    LethalDose
    LethalDose 2013/08/13
    「赤の他人が代理人みたいな顔して被害を言い立てるのは、ほとんど盗みのようなものよ」「あいつらは卑しい泥棒で、そんな連中の言うことを聞くなんて、彼らが「身になっている」と称する弱者に対する侮辱ですらある
  • 私たちの好きな弱者 - 傘をひらいて、空を

    声が耳に入って反射的に振りかえる。その動作が終わるころになって知っている声だったと気づく。女は私の隣の誰もいない椅子の、その隣に座って、軽く笑い声をたてる。あの人だ、と私は思う。ずいぶんと時間が経っているけれども、間違いない、と思う。 そのころ私は大学生で、金曜日の夜はたいていファミリーレストランにいた。正確には金曜の夜から土曜の朝にかけて、カップや皿を運び、フロアの半分を無人にして掃除機をかけた。人々は華やぎ、あるいは少し疲れていて、終電のころに入れ替わり、入れ替わった後の人種の方がいっそうきらきらしく、いっそう疲弊していた。終電を逃したのかもしれないし、いるつもりだった場所に飽いたのかもしれない。追い出されたのかもしれないし、何かのあてがはずれたのかもしれない。そのような人々を、私は好きだった。 わけても気に入りのひとりに、二十代半ばの女性がいた。端正というにはくせのある、おそろしく魅

    私たちの好きな弱者 - 傘をひらいて、空を
    LethalDose
    LethalDose 2013/08/06
    終わりから3番目の段落が、腑に落ちる。
  • そして戦争は続く - 傘をひらいて、空を

    こんばんは。はいこんばんは。その後いかがですか、おげんきですか。つつがなくやっておりますよ、ところで、もうかけてこないんじゃなかったの。まあそう言わずに、実は新しい仕事が決まったんだ、それでみんなにかけてる。あらまあそれはおめでとう、よかったねえ。ありがとう、まあ悪くない、今の俺にしては悪くない、前のところほどじゃないし、三人に一人は辞めるし、だけど三年残ればまあ勝ち組だよ。 おめでたいところ申し訳ないんだけどさあ、私は勝ち組とか負け組とかそういうの興味ないんだよ、今日は私のかわいい金曜日の夜で、せっかく友だちと美味しいごはんべて上等のお酒をのんでいい気分で帰ってきたところなんだからそういう下賎な語彙を持ちこまないでほしいよ、誰かが自分の望む仕事をしているから幸福だというなら私は喜ぶ、でも勝ち組だからどうこうっていう話なら三年後にさっきの「おめでとう」は一グラムの残りもなく回収する。 勝

    そして戦争は続く - 傘をひらいて、空を
    LethalDose
    LethalDose 2013/06/18
    「たましいというのはたとえば、自分が持って生まれた気質だとか自分の内面の自分でもキャッチしていないところだとか身体のさまざまに感じるところだとか、そういうのだよ。」
  • スタディ・アフェア - 傘をひらいて、空を

    研修の知らせがあるとだいたい出席してるよねえ、と先輩が言う。マキノって暇なの。この先輩は先だって私のあずかる案件に突然発生した作業を夜半まで手伝ってくれた。私たちは顔を見合わせてにやりと笑い、暇なんですよと私はこたえる。いつもの仕事ばかりしていると、それがどんなに頭を使うものであっても、判断を要するものであっても、必死に努力していても、やっぱり、どこか、暇なんです。精神が退屈する。研修は、ふだんの仕事と直接関係しないものも多いから、好きなんです。そのときだけたのしんで、あとのこと考えなくってもいいから。タダっていうのもすてきです。私はそのように説明し、先輩は軽口をたたく。後腐れのないその日かぎりのお楽しみってやつね、悪いオトナだわ。 終業後に設定された研修の前半が終わり、休憩時間にぼんやりしていると、講師役が会釈する。今日の研修の主催は社内の他部署で、講師はそこの人で、だから顔見知りだった

    スタディ・アフェア - 傘をひらいて、空を
    LethalDose
    LethalDose 2013/03/12
    いいねえ、スタディ・アフェア。あまりお金がかからなくて、少しだけ興味がもてるような講習会とかあったらいいね。ぼくは退屈なときは、眼球を動かしてどこまでいけるか(上下左右どこでもいい)挑戦する。
  • 私たちはいけすかない - 傘をひらいて、空を

    マキノさん今日誕生日なんだよねと上長が言い、はい三十四になりましたと私はこたえた。おめでたいのでビールを飲むと良いというせりふとともにグラスが手渡される。残業していたら上長がああやめ、もうやめ、仕事はやめだ、と宣言し、ふだん話す機会の少ない同僚たちが来ている飲み会に連行されて、それで私はこの場にいるのだった。反対側に座っていた顔見知りの別の部署の社員が大きい声をそこにかぶせる。マキノさんそんな三十四歳とか、言わなきゃわかんないんだから、大丈夫、黙ってりゃ大丈夫ですよ。私は彼のことばをうまく理解できなかった。大丈夫ってなんだろう。 お誕生日おめでとうと言われたら、ありがとう、何歳になりましたとこたえる。それについて深く考えたことがなかった。でもそれを止める人がいる。きっと私の年齢が好きじゃないんだと私は思った。だから黙っていろと言うんだ。中年であって、女であって、家庭を持っていないことに、な

    私たちはいけすかない - 傘をひらいて、空を
    LethalDose
    LethalDose 2012/10/02
    タイトルに若干の違和感。今まで生きてきた長さを評価されるのは、何歳になってからなのだろう。ぼくは誰かに誕生日おめでとうと言うとき、一年間生きられて良かったですねとの思いを込める。本人には言わないが。
  • 彼女の負債と有罪 - 傘をひらいて、空を

    私たちは空想上の通帳をあいだにはさんで難しい顔をしていた。空想上のでないものをテーブルの上に置くことはなんだかできなかった。安全のためというより違和感のために、私たちはそれができないのだった。にぎやかな駅の前にはほとんど必ずあるようなチェーン展開のありふれたカフェのありふれたテーブルの上に個人名の通帳を置くことがどうしてか耐えられない。むきだしの通帳が似合うのは誰かのおうち、でなければ銀行のカウンタだけだと私は思う。 それは彼女が彼女の若いころに助けられた「おばさま」のために就職以来ずっと貯めていた預金で、今ではけっこうな金額になっていた。おばさまとは言うけれども血はひとつもつながっていない。わけあって血のつながった人間が誰ひとり彼女の身分を保障しないので、なにかというと保証になる人間を求められた若いころはとくに、彼女はおばさまに助けられていたのだった。おばさまは大胆な嘘だってついた。必要

    彼女の負債と有罪 - 傘をひらいて、空を
    LethalDose
    LethalDose 2012/08/07
    ぼくだったら、これからは対等に付き合いたい、とおもうだろう。おばさん側から考えると、どうしようもなく困っている人ではなくて、(絶望的に困っていなくても)自分が助けたいとおもう子を助けるだろう。
  • 悲鳴として悪は成される - 傘をひらいて、空を

    喉の詰まる感覚をおぼえて自席を離れた。なにかがときどき彼の喉に発生するようになって数ヶ月が経つ。何を飲んでも流れないけれども儀式めいてなにかを飲む。自動販売機の前で彼は立ち止まる。梅雨冷えの空気に肌が薄く粟立ち、よく冷えた缶が飲み物に見えなかった。 コーヒーを飲もうと思う。管理職が私物のコーヒーメーカを持ちこんでいる部署がある。顔を出すと当の管理職である加賀さんだけがいて彼はひどくうろたえる。コーヒー淹れましょうかあと言われて、なんだか逃げ場がなかった。時間を考慮せず申し訳ございませんと彼は言う。加賀さんはへんな顔をして、僕が淹れるコーヒーが飲めねえかあ、と芝居がかった口調をつくる。 ああ中堀さんコーヒーですかと声が聞こえて彼はびくりと振り返る。加賀さん唐揚げ弁当ありましたよ。わあい。槙野さんは何たべるの。豆サラダとおにぎりです。ダイエットお?やだねえ。ダイエットがいやなのは加賀さんです。

    悲鳴として悪は成される - 傘をひらいて、空を
    LethalDose
    LethalDose 2012/06/12
    よくひとを見ているなあ、と思えるエントリ。全部想像で人物像を描いているのなら、それはそれでものすごい。
  • 彼女の悪い趣味 - 傘をひらいて、空を

    彼女は彼を甘やかすのがとてもうまい。彼女は彼の安い欲望の諸相を熟知している。持ち上げて。連絡して。連絡しすぎないで。呼んだら来て。顔色を読んで。きれいにして。安心させて。優越させて。頼るそぶりをして。好ましい内容で。 彼女はそれを軽々とクリアする。彼女の能力は高い。その程度のことは彼女の娯楽の範疇だ。甘い真綿を敷くように彼女は彼をいい気持ちにする。彼女の有毒であることは私の目にはあきらかだけれど、彼女はもちろんそれを彼に見せない。キャンディみたいなパッケージ、両端を引けばころりと落ちる。そんななりをしている。 彼が彼女を愛玩しはじめて、そう見えて実のところ彼女が彼を愛玩しはじめて、もうすぐ一年になる。夏になると彼女は、ねえ悪巧みがしたいなと言う。彼女は悪い企みごとがとても巧い。夏が来たからねと私はこたえる。彼女のそれは季節性の病だ。悪巧みのために彼女が彼を引っかけたのが去年の夏で、それはす

    彼女の悪い趣味 - 傘をひらいて、空を
    LethalDose
    LethalDose 2012/06/05
    時間を費やしてまでそんなことがしたかったのかなあ。/「そうしてもっとも卑しいのはそれが無意識の裡におこなわれていることだった。」ひとの彼氏をここまで分析するのも少しいやらしい。
  • たちの悪い鏡 - 傘をひらいて、空を

    打ちあわせから戻ったら七尾が彼のデスクの前に立っていたので彼の腹の底に小さな吐き気の種が生まれた。それから七尾の指がデスクの天板に触れているのを見て取った。種が浮上する。七尾はさりげなく背後の自分のデスクに戻る。何か、と不自然なほど遠くから彼は声をかける。七尾は後ろを向いたままかすかに首を振る。 七尾は彼の同僚で、同じ仕事をしている。職位も同じだ。今のところは、と彼は思う。彼はその部署でひとりだけ飛びぬけた成果を出している。顧客たちは彼を指名し、彼の仕事に他の五割増しの対価を提示する。彼が取ってくる、あるいは彼にやってくる仕事のすべてを彼が引き受けることはできない。彼の上司がそれを他のメンバに振り分ける。七尾もそのひとりだ。 七尾がぬっと彼の視界に入ってくる。彼は眉をひそめる。二時、三時、と七尾は言う。彼は眉のあいだの皺を深くする。ミーティング、と七尾は言う。定例ミーティングの時間が変更に

    たちの悪い鏡 - 傘をひらいて、空を
    LethalDose
    LethalDose 2012/05/22
    「まったく人を嫌いになるなんてろくなことじゃないね、悪い鏡を持つようなものじゃないか。」まったく。ちなみに「誰のおかげ~」はぼくも10代の時に絶対言うまいと決意した。まあ、いう機会も無いまま今に至るのだ
  • 愛に殉じたそのあとに - 傘をひらいて、空を

    里佳子さんがふたつ年上の夫と結婚して三年になる。子どもができたので退職するという。おめでたい話だ。けれど里佳子さんに限っては少なからぬ数の社員が個人的にざわついており、不審がった後輩が私のところに理由を尋ねに来るほどなのだった。彼は訊いた。なんで家庭に入るとまずいみたいな感じなんですか。あの人旦那さんラブだし別によくないですか。そうとも里佳子さんは旦那さんラブだよと私はこたえた。だから私たちはどうしたらいいかわからない。 最初に里佳子さんとその夫の問題に気づいたのは、自分の結婚式の二次会に彼らを招待した社員だった。里佳子さんたちはまだ新婚だった。ふたりのそばを通ったときに聞こえたせりふに彼女はひやりとした。これだから頭の悪い女はいやなんだ。 あとは里佳子さん人から、少しずつ聞き出した。里佳子さんは愚痴を言わない。ただ彼女が当たり前だと思っている話が、当たり前でない内容をふくんでいる。里佳

    愛に殉じたそのあとに - 傘をひらいて、空を
    LethalDose
    LethalDose 2012/03/20
    「家庭に疑問を持ったとき、外の世界の窓口になること、簡単にアクセスできる窓口であること」彼はいい男だ。誰のおかげで飯を、と言う人間は大嫌い。
  • 短時間の小規模な孤独 - 傘をひらいて、空を

    舐められたもんですねと同僚が言い、やっぱりそうですよね、と私はこたえる。彼は私を見て目頭に薄い皺を寄せ、いただきますと手を合わせてから味噌汁に箸を添えてひとくち飲みこみ、焼いた鯖の焦げた皮のふくらみをぱりんと割って、槙野さんって怒らないの、と訊く。私は笑い、怒らない人間なんていませんと言う。私はけっこう怒りっぽいほうです。怒鳴ったりものを投げたりします。でも今はごはんべてるし、そういうのはあとでいいです、銀鱈の煮つけのほうがだいじ。 私たちの会社では数人が通常業務とはべつに会社説明会にアサインされている。私もそのひとりだ。会社説明会には管理部の社員と別の部署の社員が二人組になって行く。管理部が会社全体の説明、その他の部署が具体的な業務内容の紹介を担当する。 会場に行くとはじめて組む管理部の社員が資料を並べていた。私はそれを手伝った。それから控えの席に座ろうとした。管理部が私を呼び止めた。

    短時間の小規模な孤独 - 傘をひらいて、空を
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    LethalDose 2012/02/28
    使えるなら使う、と言う姿勢を上司から続けられはやうん年。仕事はそこそこおもしろいので続けているけれど、こちらも相手を人として認識しなくなりそうで怖い。同じレベルになりたくないものだ。
  • 幸福な猿と親切な猿回し - 傘をひらいて、空を

    うちのポールはだめだ、なんの意外性もない。彼女がそんなふうにこぼすので私は笑う。ポールは彼女の新しい同僚で、彼女の会社が外資系の会社と吸収にかぎりなく近い合併をしたのでやってきた社員のひとりだ。ポールはアフリカアメリカ人で、彼女の隣の席に座っている。彼らはやや特殊な専門職であり、ふだんの勤務は私服でかまわない。ポールはリーバイスをはく。ポールはコークをのむ。ときどきペプシをのむ。それからやはりコークがいいと言う。 まあまあと私は彼女をなだめ、いい人そうじゃんと言う。彼女はうんざりしたように、ああいい人だよとこたえる。こないだなんかスティーブ・ジョブズに関するを読んで「zenに興味を持った」って真顔で言う、そのがさ、禅をキーワードにジョブズのプレゼン技術を語るなわけ。ああもう、どこまで、ステレオタイプなの。私はげらげら笑い、私その人のこと、わりと好きだな、と言った。私もまあ嫌いじゃな

    幸福な猿と親切な猿回し - 傘をひらいて、空を
    LethalDose
    LethalDose 2012/02/14
    ぼくはたぶん使い勝手のいい雑巾だとおもわれている。
  • 彼らのアイスランドの城 - 傘をひらいて、空を

    彼とは久しぶりだったので、どうしてたと訊いた。稼いでたと彼はこたえた。相変わらずだねと私は言った。相変わらずじゃないと彼は言った。常に右肩上がり。じゃんじゃん稼いでる。 彼は彼自身の自己紹介を借りれば「稼ぐほうの弁護士」で、稼がないほうというのがどんなものか私は知らないけれども、とにかくよく働いていた。彼の恋人は私の友だちで、彼らは司法試験の受験仲間だった。彼女は彼の言うところの「国家権力の犬」になって、彼と暮らしていた。彼は華やかで少し不安定で、どことなく過剰で、美しいものと力のあるものが好きで、やけに正確な文法を使って滝のように話すのだった。その量と速度が圧倒的なので、何度か会っただけなのにひどく親しい間柄のような気になってしまう。 そんなに稼いでどうするのと訊くと彼は花火のように笑って、アイスランドに城を建てる、とこたえる。私はその文句を気に入って、すてき、と言う。すてき、でもアイス

    彼らのアイスランドの城 - 傘をひらいて、空を
    LethalDose
    LethalDose 2012/02/07
    ほんの少し現実になれば、とおもって話した話を、まったく架空の話だと受け止められるのは少しかなしい。