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東浩紀に関するLoneStarSaloonのブックマーク (3)

  • 東浩紀は文壇・論壇の「救世主」たりうるか? - 文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

    ■コメント欄■ 久しぶりに「中央公論」(11月号)という雑誌を読んだのだが、これが、なかなか面白い企画のオンパレードで、僕は興味深く読んだのだが、中でも筒井康隆と楊逸(ヤン・イー)の対談、あるいは東浩紀のインタビューが刺激的だった。いずれも文学や文学者に関連した内容で、最近の文壇・論壇の貧しい思想的状況の根原因の解析になっているように思われた。ここでは、まず東浩紀のインタビューを取り上げてみよう。東浩紀は、ジャック・デリダ論でデビューし、最近は、オタク文化とポストモダンを結びつけ、それを日文化論として論じた『動物化するポストモダン』と『ゲーム的リアリズムの誕生』などの著作で、文壇・論壇とその周辺に大きな反響を巻き起こしている文藝評論家・思想家だが、そしておそらく、文壇でも、柄谷行人以後の批評界に現れた大物新人として、彼に期待する向きも少なくないだろうが、このインタビューもそれを前提にし

    東浩紀は文壇・論壇の「救世主」たりうるか? - 文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』
  • ■ - motidukisigeru’s diary

    いろいろあって、1年半ぶり以上の新記事となる。 いや久々に見たら、あまりに変わっていなくて笑ってしまったので。 「美少女ゲームゲームなのか」 http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0608/30/news096.html 「インタラクション性よりも、中に描かれているものに対してゲーム性を感じている」 http://plusd.itmedia.co.jp/games/articles/0608/30/news083_2.html 俺も中学くらいの時、とにかくやたら、ゲーム性という言葉を、振り回してイタい議論をしていた。 今になって思えば、そういう文脈の「ゲーム性」というのは、たいてい、狭い意味での戦術性、くらいの意味だったんだが。 戦術性があって面白いゲームもあれば、戦術性と別のところで面白いゲームもある。言葉にすれば、ただそれだけのことだ。 が、「

    ■ - motidukisigeru’s diary
  • ■ - motidukisigeru’s diary

    ゲームの外側」の遊びへの注目 http://amanoudume.s41.xrea.com/2006/09/cedec.html こちらからリンクをいただいていたので、少し。 さて、東浩紀氏は、作品とファンの関係について、長い間語ってきた。 美少女ゲームにおいては作品内のゲーム性は失われたと発言した。また作品自体の価値が失われ、データベース化されてゆくのがポストモダンの現代である、と、主張した。 それが正しいとすれば、作品発信者は、積極的にファンコミュニティを育てるべきであるが、一方で、Type Moonがファンを大切にしてることに私怨めいたことを書いたりする。いったい、どっちなんだ、おまえは、と、言いたくなるが、まぁ。 東氏の言ってることを汲むと以下のようになるだろう。 ポストモダンの現代、普通のストーリーは不可能となった。 多くの作品は、データベース化された中で、ユーザーとコミュニテ

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