世の中 『『産経「女の子が性犯罪に遭うのは、短いスカートや夜道を歩く自分の責任」:テラニュース - ライブドアブログ』へのコメント』へのコメント
http://diamond.jp/series/izumiya02/10005/ インターネット上で、「適応」について批判的な文章を発見した。上記リンク先では、封建的な企業や偏狭な独裁者に「適応」することを例示しながら、「適応」とは「麻痺」ではないかという見方がしめされている。そして、詩人の歌を引用しつつ「適応という名の麻痺」からの決別を礼賛している。 しかし、それはそれで随分と偏ったビジョンなんじゃないだろうか。 違和感を覚えたので、自分なりに「適応」や「適応障害」について考えていることを書いてみようと思う。 「適応」が問題なのではなく「順応」や「過剰適応」が問題ではないのか まず、リンク先の「適応」のニュアンスに注意を払っておきたい。 「適応」とは、外的環境に対して自分を変化させて、うまく合わせられるようになることを指します。しかし、その際に自分の内部に起こる変化とは、どんな内容なの
なんで世の中には「バカ」な奴がいるのだろうなという素朴な疑問から出発し、そういえば「バカ」とは具体的にどういうことかなと考えていて、ひとつ思いついたのが以下の定義だ。 何にも考えてないのに、考えたような気になってる人。 これは考えてるようなフリをしてる人や、いわゆる知ったかぶりのような人とは違う。本人が本気で考えたような気になっているという点がポイントだ。典型的なのが、本で読みかじった知識やフレーズを恰も自分が発案したかのような顔で騙るも、本当は自分では何も考えていないから、その知識やフレーズについての理解が本質的な部分にはまったく至っておらず、少し突っ込まれただけで狼狽して馬脚を現すパターンである。 考えたような気になっている人は、そもそも考えることを放棄した人よりはましだろうか。 自分で考えない人というのは確かに、仕事の局面では忌避される傾向にある。ポイントだけ伝えても、それをどのよう
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