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ブックマーク / p-shirokuma.hatenadiary.com (4)

  • 日本の破局的な少子化と、急ぎ過ぎた近代化 - シロクマの屑籠

    今の20歳が40歳の半分しかいないって当にいい話だと思う。戦争でもあったのかな?— 🦀カニカニカーニバル🦀 (@yu1096) 2018年11月7日 たぶん、このツイートはブラックジョークのつもりで書かれたものだろうが、私には冗談にみえなかった。 「今の20歳は40歳の半分しかいない。戦争でもあったのかな?」というツイート、ジョークのつもりかもだけど、これ、実際戦争に匹敵するようなカタストロフィがあったのに気付いている人があまりいない、ってグロい状況を反映しているなぁ、と思った。— p_shirokuma(熊代亨) (@twit_shirokuma) 2018年11月8日 乳児死亡率の低下によって起こる第一の少子化は、それほどカタストロフではないし、アメリカやヨーロッパのベビーブームが証明しているように劇的少子化とも限らない。しかし、東アジア諸国などで今起こっているような第二の少子化

    日本の破局的な少子化と、急ぎ過ぎた近代化 - シロクマの屑籠
    NAT
    NAT 2019/01/08
    乳児死亡率が低下し出生率が2前後まで下がる人口転換の第一段階と、個人主義や家族観の変化を背景として出生率が2以下になっていく第二段階。日本を始めアジアでは、この2つが急速に進行したという話。
  • 「引きこもるプライベート」から「持ち運ぶプライベート」へ――子ども部屋、そしてスマートフォン - シロクマの屑籠

    私達がプライベートなるものを手に入れたのは、割と最近のことだ。 かつて庶民は、隣近所の物音や話し声が聞こえるような間取り・建屋のなかで暮らしていた。また、典型的な農家のように、部屋と部屋をしきるのは板一枚だけの、家庭内にプライベートが存在しない状況を生きていた。いわゆる地域社会において、ウチとソト、イエと個人の境界が曖昧だった理由の一端には、そうした曖昧さを生み出ずにはいられないようなアーキテクチャに由来する部分もあるだろう。 それが、高度成長期も後半になってくると、コンクリートの壁、防音壁、頑丈なドアといったものに仕切られた住まいが出現してくる。『「51C」家族を容れるハコの戦後と現在』によれば、最初期の公共住宅*1は、必ずしも現代風の間取りを狙ってつくったものではなかったらしい。むしろ、農家の間取りなどを参照したうえで、フレキシブルに運用ができるよう配慮してつくられていた、という。 「

    「引きこもるプライベート」から「持ち運ぶプライベート」へ――子ども部屋、そしてスマートフォン - シロクマの屑籠
    NAT
    NAT 2012/09/09
    趣味の部屋に引きこもらずとも、携帯型音楽プレイヤーや携帯型ゲーム機、スマートフォンにより趣味を持ち運べるようになって、価値観が変化したという仮説。面白いな。
  • "叩いて構わない奴はとことん叩く"空気と、いじめの共通点 - シロクマの屑籠

    ネットを眺めていてふと気付いた。 現在、日のメディア上では、ネットであれテレビであれ「バッシングを公認されるような過失・落度のある相手は、どれだけ叩いても構わない。その際、相手がどうなるかは配慮しなくて構わない。それが社会だ」という風景がリピート再生されている。なにか不祥事や事故があったら、法的責任が問われるだけでなく、責任者は罵倒され、土下座させられる。法的責任を追求するのとは別に、“感情を納得させる”ために罵倒すること・土下座させることを、社会正義とみなすような空気ができあがっている。もちろん、そうした罵倒や土下座に警察が口出しをすることはないし、マスメディアも何わぬ顔で報道する*1。バッシングが公認される大義名分がある限り、責任者が唾を吐きかけられてもしようがないよねー、という不文律ができているらしい。 インターネット上での“炎上”も似ている。失言・過失・違法行為があったと判明し

    "叩いて構わない奴はとことん叩く"空気と、いじめの共通点 - シロクマの屑籠
    NAT
    NAT 2012/07/07
    あー、確かにネットでの「叩き」といじめには、似たようなものを感じるなあ。
  • 日本人が失ったのは「寛容」ではなく「身内」では? - シ口クマの屑籠(汎適所属)

    「最近日から寛容さが失われている」のは何故か - Togetterまとめ 新幹線の車内ではしゃいでいる子どもや、夜遅くまで騒いでいる大学生に対し、私達はどれだけ寛容な気持ちを保っていられるだろうか?次世代を担う子ども達の、年齢相応の振る舞いに対してさえも、寛容よりも非難が勝る人が増えているのではないだろうか? 寛容さとは正反対の、きわめて自己中心的な人達もよく見かけるようになった。自分の意に沿わない相手に攻撃的な人間や、他人に際限なく要求する人間が、モンスター○○などと呼ばれて問題視される時代でもある。*1 これらを踏まえて「昔の日人が寛容」で「現代の日人は寛容じゃなくなった」と結論づける人は多そうだ。少なくとも、見かけ上、日から寛容さが失われたように見えるのはその通りかもしれない。 「身内」には寛容でも「他所者」にはそうでもなかった日人 では昔の日人は、当に寛容だったのか?

    日本人が失ったのは「寛容」ではなく「身内」では? - シ口クマの屑籠(汎適所属)
    NAT
    NAT 2011/02/11
    「身内とアイデンティファイされる人間に出遭わなくなったから、寛容に振舞う相手がいないだけ」に、目からウロコが落ちる思い。
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