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ブックマーク / thoughts.asablo.jp (7)

  • 8月15日: 気がつけば82歳

    全国戦没者追悼式のテレビ中継は15分間だった。 67年に体験した私だがその日の記憶は修正されているようだと気が付いたのは、昨日古い書類を探していて同じ箱に入っていた日記を読み返した時だ。 母の影響で物心ついたときから教会に親しみ、神様の前では人間皆平等と信じ、欧米の童話やシャーリー・テンプルが身近だった。 新聞の一面に鬼畜米英と書かれていてもそうは思えなかった。 進学した学校もアメリカに縁の深い歴史が有った。 それなのに昭和20年八月十六日の日記には、 敗戦の口惜しさ、自分の不甲斐なさ、哀しみと反省の言葉が乱れていた。 一瞬にして日人の誇りをとりさられた痛恨の涙。 大御心の有り難さに感泣した とも。 今にみていろ 働くんだ 勉強するのだ、 学校に提出する日記ではないから当にそう思ったのだろう。 ひねくれた解釈をすれば18歳の女の子はそう思わなければ恥ずかしいと思ったかも。 前日の八月十

  • 戦前の父親像: 気がつけば82歳

    昭和初期を舞台にしたテレビドラマを観ていると父親像に違和感を覚えることが多い。 家庭で絶対の権力と家長としての威厳を示す姿にそういう思い出を持ってる人も多いのかな。 私の育った町は会社勤めの方が多くて母親は家庭を守り育児に専念する役割分担がはっきりしていた。 選挙権は男性だけにしかなく女性は社会的に認められていなかった。 我が家とか周囲の家を思い返すと一応一家の代表として夫を立てていたけれども家庭や育児に付いては主導権を握っているように見えた。 私は父に叱られた覚えが無い。 女学校2年のころに洗礼を受けたいと言ったときに 「大人になるまで待たほうがいいと思うよ」 と言われて不服だったが4〜5年して考えは変った。 医者になりたいと言ったときも、まだ女医の道は厳しいからと反対されて、どうしてもという意志も無かったからあっさり諦めた。 私の性格をよく判っていたなと思う。 姉が上野の美術学校に行

  • 孤独感: 気がつけば82歳

    べ終わったところに友人から電話を貰った。 丁度10歳先輩の友の明るく元気な声が飛び込んで来て嬉しかったな。 ネットで知り合ってもう10数年になる。その頃はお互い元気で新幹線で行き来してオフで親交を深めたものだ。 お互い年齢を重ねて外出が不自由になり会えなくなったが電話で長話を時々する。 「孤独なのよね」 「うん 解る。 病院で白い壁に囲まれてテレビも見る気力無くて、つくづく孤独感に苛まれたわ」 「話し相手がいないし、自由に外出もできないって 辛い」 彼女は早くから立派なホームに入って多くの人に囲まれている。 独り暮らしの私とは違うが年齢とともに孤独を感じるのは同じだと思う。 私は夫がいる時はあまり感じなかったから同じ世代の連帯感の問題も大きいのだろう。 高齢になると行動範囲が限られてくる、友人が亡くなったりして話し相手が少なくなる、興味の範囲も狭まって楽しみが減ってくる。 この

  • 84歳の雑感: 気がつけば82歳

    若い方達は昭和初期の風景をどんな感じで思い浮かべるのだろう。テレビもパソコンもCDもない時代、無論携帯も無くて、電話の有る家も少なかった。 自家用車も限られていた。 エアコンも無くて冬は寒く夏は暑い自然のまま暮らしてそんなものだと思っていた。 私が子どもだった頃に明治時代を想像して不便だったろうと思ったのに似ているかな。 その後に苛酷な戦時下と敗戦後の物資欠乏、毎晩の停電などを経験した時は昭和初期の生活を懐かしんだ。 私が子供時代の風景を和やかで美しかったと思い浮かべるのは家庭的に恵まれていたからだろう。 蔵書がいっぱい有って干渉されない自由があったから。 國全体としては重苦しい苛酷な状態だったことを大人になって知った。 成人する前に敗戦、価値観の転換、秩序の崩壊を経験して良かった。 柔軟に受け入れることが出来たし未熟でも思うことが言える時代だった。 あれから60有余年経って戦前に比べれば

  • 田舎暮らし: 気がつけば82歳

    海辺の家から田舎に引っ越した時は私は学校の寮から軍需工場へ通っていたから詳しい模様は知らない。 既に発病していた母と二つの病院を掛け持ちしていた父と二人では大変だったろう。 人手も頼めない世情になっていた。 休日に訪ねると、内装していない2階に荷物が山積みで蔵書は紐で括られたまま転がっていた。 引っ越して間もなく、前の家は大空襲で燃えてしまったそうだ。 知り合いの方に 「お宅は風水害の時も引っ越して無事だったし、空襲も逃れてほんとうに運がいいですね」 と羨ましがられたけど申し訳ないみたいと母が言っていた。 田舎暮らしは馴れないことが多かった。 工場が爆撃で焼失して自宅に帰り、嫁いだ姉も空襲が激しくなったので赤ちゃんを連れて帰って来た。 母は手術のため大阪の病院に入院したから姉と私が家事をしたが、水道 ガスのない生活は初めてだった。 裏の離れた所にある井戸でバケツに汲んで両手に提げて流しの横

  • 気がつけば82歳

    パソコンの不調で低迷していたけど、やっと何とか再開です。 車で何度も見にきてくれて、直してくれた家人に感謝でイッパイ! 貼付写真は気が付けば、95歳の誕生日も過ぎました。 誕生日には、少し遠い家人宅に泊めてもらってお祝いを。 車で、夫の定年後に移り住んだ湘南の懐かしい家の跡や馴染んだ景色の中を走ってくれて、嬉しくて涙が滲みでた。 彼が健在なら喜んだだろうに〜 生来の怖がりで外出を控えていたら、すっかり脚が弱りました。 不精しないで努めて歩かないと思ったら、もう梅雨空みたい。 でも 家でやるべきことも山積みです。 嬉しいコメントをイッパイ戴いたまま失礼してて御免なさい。 明日から頑張ります。 添付写真は家族からの嬉しい誕生日カード。

  • 昭和初期のこどもー髪型: 気がつけば82歳

    小学生の時の日の思い出を書いたら、あの頃の自分や友達の姿が鮮明に現れた。 服装も、髪型も、気持だって今とは随分違う。ちょっと書き留めたくなった。  完全に追憶モードにハマっている! 地方によって随分違ってたはずだから昭和初期の風俗と一くくりにはいえないと思う。 あくまで私の個人的な記憶です。 女の子はオカッパが主流だった。小学生で前髪を上げたり横分けにした子は一人もいなかった。 短めのオカッパーーー後ろの生え際は4~5センチ剃る。 刈り上げ -----坊ちゃん刈りに似てるがずっと長い。 日人形風 ----踊りを習ってた子? 少数派。 私は後ろの生え際を剃った感じが嫌いで刈り上げにしていた。 関西ではサンパツヤさんと呼ぶ。月に1度くらい小銭を握りしめて行った。 椅子に腰かけると首に薄い脱脂綿の包帯状のを巻いて白いケープを掛けられた。 年配の小父さんが散髪してくれて奥さんがこまごまと手伝っ

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