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ブックマーク / jun-jun1965.hatenablog.com (16)

  • 悲しき文学研究者 - jun-jun1965の日記

    筒井康隆の『文学部唯野教授』に、文藝評論家でもある英文学者がを出したという話をしていて、聞いていた、著書もないような老教授が、「それは、いくらくらい出したのですか」と訊いて、唯野らが、この人はを出すのに自分がカネを出すと思っているのだ、と思って愕然とする場面があるが、これは今読むと何とも言えない気分になる個所である。 当時はバブル経済期でもあったからこうなるのだが、今では、文藝評論でさえ、おいそれとは出ない。いわんや、文学研究者の研究書などというのは、自費出版でなければ、研究助成金をとって出し、三百部から五百部、うち五十部以上は人買い上げで、もちろん印税なんかなし、というのが普通である。まあ昔だってそうだったかしれないが、文学研究書の売れなさはすさまじいものがある。外国文学のを多数出している水声社(旧・書肆風の薔薇)は、印税なしである。 阪大にいたころだが、さる英文学者が、知人の作

    悲しき文学研究者 - jun-jun1965の日記
  • 天皇と同和 - jun-jun1965の日記

    自由同和会という保守系の団体があることを私は知らなかったのだが、橋下について『週刊朝日』に抗議した文書に、「身分制を肯定し」とあったからおやおやと驚いた。橋下は天皇制というれっきとした身分制を肯定する人ではないのか。 それで自由同和会にメールを送って、お宅は天皇制を認めるのかと訊いたら、「hirakawa」ってメールが来たから、一瞬××先生からメールが来たのかとびびったが、これは自由同和会中央部事務局長の平河秀樹とかいう人だった。しかしこんな、単著も論文もない人のことは知らん。天皇制は認めている、国旗も掲げている、解放同盟とは一線を劃しております、小谷さま」とどうも私のことを知らないようだったから、「天皇制は身分制ではないのですか」と返したら、ややあって「天皇制に関する不毛な議論はこれで終わりといたします」と返事が来た。おいおい、何か苦し紛れに言えよと思うくらいたちまち議論拒否である。ど

    天皇と同和 - jun-jun1965の日記
  • 丸谷才一死去 - jun-jun1965の日記

    私が大学院へ入つた時に行われた八王子セミナーハウスでの合宿には、芳賀先生の縁で大岡信が講演に来ていたのだが、丸谷才一らと連句をした時に丸谷が「モンローの伝記下訳五萬円」とやったたのでみな呆れたが、大岡がそのあとへ「どさりと落ちる軒の残雪」とつけた、と言うので、みなおおーと感心したのだが、これはどのに載っているのか、確認を忘れていた。 しかし、もし丸谷がモンローってもちろんノーマ・ジーンであろうが、その伝記の下訳をしたのか、というに、モンローが死んで伝記が出るころは丸谷はもう45を超している。 可能性があるのはノーマン・メイラーの『マリリン : その実像と死』(中井勲訳 継書房: 高等教育研究会 (発売), 1973)なのだが、この中井勲という人、1917年生まれだから確かに丸谷より年上なのだが、何者だか全然今のところ分からない。現物を見るとプロファイルあるのだろうか。 (付記:中井は、愛

    丸谷才一死去 - jun-jun1965の日記
  • ■ - jun-jun1965の日記

    「2ちゃんねる」の発信者情報開示請求は、いま誰に対して行われているのだろう。二日ほど前にツイッターでそうつぶやいたら、見事に誰も返事しなかった。 以前は西村博之だったが、シンガポールへ移ったと報道され、なおかつそれはペーパーカンパニーであるとされた。しかし情報開示に成功している人はいる。ではどこへ開示請求しているのか。 最近は、「2ちゃんねる対応可」などと謳う、こんな弁護士もいる。 http://www.alcien.jp/fuuhyou01.php さて、問題は、 裁判所を通じた発信者情報開示請求を行っていきます。他に、いわゆるプロパイダ責任制限法に基づく発信者情報開示請求をするという方法もありますが、裁判所を通じた方が早く確実なことが多いです。 これが初歩的な話、つまりプロバイダーに請求しても開示しないから裁判所に訴えるということであれば、特に問題はない。だがプロバイダーが、裁判所を通

    ■ - jun-jun1965の日記
  • 私のマンスリー・ショック  - jun-jun1965の日記

    最近は雑誌はたいていショックをもたらしてくれるのだが、それは誰かと誰かがやりあうショックではなくて、こうも平然とあれを無視するかというショックである。『文學界』10月号で、栗原裕一郎さんが「新人小説月評」で小山田浩子の小説をかなり褒めていたので、読んでみるかと思い、どの雑誌だったか確認するためぱらぱら見ていたら、上野千鶴子の連載が目に止まった。 (活字化のため削除) もてない男―恋愛論を超えて (ちくま新書) 作者: 小谷野敦出版社/メーカー: 筑摩書房発売日: 1999/01/01メディア: 新書購入: 4人 クリック: 121回この商品を含むブログ (174件) を見る電波男 (講談社文庫) 作者: 田透出版社/メーカー: 講談社発売日: 2008/06/13メディア: 文庫購入: 5人 クリック: 132回この商品を含むブログ (62件) を見る婚活失格 (ぶんか社文庫) 作者:

  • ■ - jun-jun1965の日記

    以下、図書館というのは公共図書館なのだが、教育学のは、鉛筆の書き込みが大変多い。私は図書館に鉛筆の書き込みがあると、それを消すのが趣味なので、必要もないのに消すために借りてきたりする。談志師匠が写真のへりを切るのが好きだったのと似た奇癖であろう。 全体にわたって傍線やらかっこやらが書き込んであると、おのずと消しながら読むが、実にくだらないことが書いてある。だいたい70-80年代のものだが、受験競争の弊害とか、叱ることとかしつけとか、教育ママとかマスコミの影響とか、まあ新聞に書いてあるようなことしか書いてなくて、時おり西洋の学者の言葉が引用されたりする。学問的価値はゼロに近い。『青年心理』とか『児童心理』とかいう雑誌に、こういうものが載るらしい。 すると、私の目には、この書き込みをした人の姿が浮かんでくるのである。30代半ば、短大卒くらいのお母さんで、子育てに悩み、かといって家は貧しく

    ■ - jun-jun1965の日記
  • 「ぶれない」 - jun-jun1965の日記

    私は「ぶれない」という妙な流行語の、自己啓発的な響きがものすごく嫌なのでもちろん自分では使わない。『週刊文春』で坪内祐三が呉智英さんの文庫を評していたのは、へえ坪内は呉智英を読むのかと意外であった。何しろ盟友だか悪友だかの福田和也は「すべからく」を誤用していたことがあるし。そこで坪内は、呉智英はぶれないので、最近は読んでいなかったと書いている。坪内の美意識で、そういう語を使うのかとこれも意外だった。ただ呉さんについては、この数年、漫画と仏教のが主なので、私もあまり読んでいない。 しかし「ぶれない」というのはどういう意味なのであろうか。信念があってそれを曲げないとかそういう意味かと思うのだが、しかしそれは人間として当たり前のことで、宮台や福田和也のように情勢にあわせてほいほい変わるほうがおかしいので、褒め言葉としても、「嘘をつかない」というのと同じくらい、変だと思う。 まあそれはいいとして

    「ぶれない」 - jun-jun1965の日記
  • ある種の人々 - jun-jun1965の日記

    私がカナダから帰ってきた翌年か、ふらりと川先生のゼミに出たら、修士の学生が萩原朔太郎の発表をしていて、それがH君だったのだが、その後聞くところでは、修士論文準備中に精神を病んで、中間発表の時に教官から「君、大丈夫か」と言われたほどで、結局三年後にようやく修論を出したが、それからどうなったかは知らずにいた。 すると四、五年前だったか、彼から手紙だかが来て、実家にいて高校教師をしているが、自分のうつ病体験をもとに論文を書きたいと言う。それでメールでやりとりして、うつ病だからといって、精神医学をやったわけでもない者が論文を書いてもしょうがないのではないか、それくらいなら体験に基づいた小説を書いたほうがいいのじゃないかと私は言った。そのあと、あいさつ代わりに私の新刊を送ったのだが、するとお礼メールが来たのはともかく、今後は買いますから送らなくていい、ということで、私としては、 (いや、一度だけの

    ある種の人々 - jun-jun1965の日記
  • 特撮ロボットは退化する。 - jun-jun1965の日記

    「ゴレンジャー」に始まるスーパー戦隊シリーズでは、いったん等身大の敵が倒されたあと、これが巨大化し、レンジャーたちがロボットを呼んで乗り込んでこれと戦うというのがパターンである。これは玩具として販売され、販促で登場するので欠かせないが、このパターンのために、戦隊シリーズはどうしても対象年齢が低くなってしまう。タイムボカンシリーズも最後はパターン化されていたが、これはそれ自体をギャグとして楽しむ構造になっていた。しかし戦隊のほうは、見るたびに「玩具を売るんだなあ」というむなしさがつきまとう。 それにしても、なんでああ不細工なデザインなのであろう。特撮のロボットというのは、デザイン的には退化しているとしか思えないのだ。ジャイアントロボの、あの悲哀をこめた表情や、マグマ大使の顔に比べ、レッドバロン以降は、まるで洗練というものがない。アニメのほうは、マジンガーZ以来、次第に洗練されていったのに、な

    特撮ロボットは退化する。 - jun-jun1965の日記
  • ■ - jun-jun1965の日記

    これは前にどっかに書いた気がするんだが、阪大にいた96年ころ、やや年下の女性同僚の室にいたら、来客があった。ドアの前についたてがあるから、私の姿は見えないのだが、来たのは男子学生らしくて、彼女が出ていくと旧知の学生らしく、「あらいらっしゃい」の後、「今日は告白に来ました。先生が好きです。つきあってください」と言うので、私はうわっと驚き、中へ入ってきたらどうしようと、隠れ場所を探したりしたのだが、彼女もさすがに困り、「そんな…あなたはまだ若いんだし」などと言って、ようやく帰した。戻ってきて、はああー、十歳も違うのに、と言う。前から時々質問などに来ていた学生だという。 しかし私は感動したのである。仮に私が二十歳の学生で、十歳上の教師を好きになったとして(ただし私のころはそんな女性教師はいなかった)、とてもこんな真似はできないと思った。偉いと思い、『七人の侍』の木村功のように、「あなたは素晴らし

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  • 純文学について - jun-jun1965の日記

    小説トリッパー』に載っていた松浦寿輝と川上弘美の対談を読んでいて、いよいよ純文学も胸突き八丁へ来たなあと思った。川上の新聞連載であるファンタジー『七夜物語』と、松浦のネズミ物語『川の光』をめぐるものだが、これはどちらもファンタジー、あるいは児童文学の類であり、一般的な純文学ではない。芥川賞作家二人が、そのことの言い訳のように、デュマやバルザックやディケンズも通俗性があったと言いあっているのだが、これは使い古されたレトリックで、久米正雄はだから、ゾラもトルストイもドストエフスキーも高級な通俗小説だと言ったのである。それなら三田誠広のように、純文学を書いても生計が成り立たないからファンタジーを書くのだと正直に言ったほうがいい。 デュマは今でも古典的通俗作家と見なされるが、まあバルザックなどの手法は、松清張や山崎豊子、高村薫などに受け継がれているわけで、だったら川上が選考委員をしている芥川賞

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  • 私は通俗小説をバカにしているわけではない。 - jun-jun1965の日記

    私は通俗小説とか娯楽ものをバカにしているわけではなくて、常に、巧みなストオリイテリングで楽しませてもらいたいと思って読み始めて、失望するということが多いのである。 藤村の『破戒』というのはあれはストーリーテリングが巧みなのである。ところが藤村自身は、それ以後、二度とああいう手腕を見せなかった。中村光夫は、そのことを言えばいいのに、社会性がどうとか言ったために、以後の批評を歪めてしまったのである。 今日、ストーリーテリングの巧みさを言われることが多いのは、漫画映画やドラマである。『めぞん一刻』後半の巧みさは誰も言うところで、例のお墓のエピソードなど、当時みな讃嘆したところである。ただ結局それが「漫画」という、いくらか荒唐無稽でも許されるジャンルだからであることは、重要で、だからあの漫画映画化しても成功はしない。 ここに厄介なのは、ストーリーの巧みさは、パターンがいく通りかに決まっているの

  • 条件法の誕生 - jun-jun1965の日記

    http://blog.goo.ne.jp/excelkoba/e/b176238c6bea52b70f602c028057eb4a 「こちらでよろしかったですか?」式の物言いも、日語がおかしいと言われつつ定着しつつある。 しかし、もしかしたらこれは、日語における条件法誕生の瞬間ではないのか。 日語には未来形というのがない。条件法も多分ない。 would you like...のwould はもちろんwill の過去形だが、条件法はほぼ助動詞の過去形を伴う。丁寧表現にも用いられるはずで、これは要するに過去形をもって条件法にし、新しい丁寧語を作り出しているのではないか。何しろ「こちらでようございますか」はちょっと古い。 - (活字化のため削除)→「凍雲篩雪」

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  • 独身男女の差 - jun-jun1965の日記

    『大学ランキング2013』が届いたので、私が怨念をこめて書いた部分を見たら、すぐ後ろに佐伯順子先生が女性大学教員について書いていた。最近、五十前後で女性学者が亡くなることが多い、とあるのは菅聡子先生のことか。佐伯さんはそれを過重労働が原因という風に書くのだが、菅さんの死因は過労ではなかったと思う。過労と言えるのは古いが千野香織、あと男で大澤吉博さん、これは歴然たる過労死だった。北川東子さんにしても、過労が原因といえるかどうか。 それはいいとして、実は論旨に奇妙なよじれがあって、ただこれは分量的にやむをえないのだが、男はがいて家事育児をしてくれるが女はそうではない、というのだが、ここで当は佐伯さんは、子育てを同居している母親に任せている働く女に怒りを覚えているのだ。それは大変よく分かる。また夫婦共稼ぎでも家事育児は女がやるという状況が残っていることもあり、それに怒りを覚えるのはいくらか分

    独身男女の差 - jun-jun1965の日記
  • ■ - jun-jun1965の日記

    川田宇一郎『女の子を殺さないために』(講談社)を読んだが、予想通り、ダメだった。で、これを書くかどうか思案した。この人は23歳で群像新人賞優秀作になっており、それから16年たって初の著書が出たことになる。大学院にいたからこれは筆名でもしかしたら名での論文などがあるとか業があるとか、そういうこともあるかもしれないが、そうでないとしたら苦労人だし、別に今のところ世間で高い評価を受けているというのでもないし、私が批判してしまうと、それこそ江藤淳が福田章二を葬ったのの十分の一くらいの効果があるだろうからだ。 文藝評論というのは、今ではもう往年のように大手出版社からは出してもらえない。こんな、米光一成みたいな文章で書かないとダメということで、それも同情するが、私が疑問なのは、果してこの人は、実際はもっとたくさんを読んでいるのにあえて触れないのか、それとも当にこの程度しか読んでいないのかが分か

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  • 人間関係プロレタリアート - jun-jun1965の日記

    大学一年の時に「人間関係プロレタリアート」という言葉を見つけて、これだ! と思った。それこそがまさに、私が求めていた概念であったのだ。もちろん、自分がそうだという意味でである。しかし、サークルの読書会で、「それは××さんが人間関係プロレタリアートじゃないからですよ」と言ったら、いきなり三年生の先輩が「また、そういう言葉を使いたがるう〜」と嫌な顔をしたものだ。しかし使いたがったのではなくて、それこそ必要な概念だと思ったのである。 「もてない男女」というと、まだ、同性の友達はいるという含みを持ってしまう。同性異性を問わず、貧弱な人間関係しか持てずにいる者を表すために、必須の概念だと思う。それとも何か別の用語があるのか。 (カニさんが「非コミュ」と言っているが、それは違和感がある。コミュニケーション能力というのとは必ずしも関係ないから。ファッションセンスが悪いとか、顔が醜いとか、流行りものに疎い

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