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一九六〇年代後半から、英米においてセックスについての哲学的議論がはじまった。議論されたのは、売買春やレイプ、ポルノグラフィなどだが、それらを問題にするには、「性的」とは一体どういうことかが明らかにされねばならなかった。私はこの論文で、性的行為や性的欲望を巡る初期の議論、とりわけ、ネーゲルやソロモンが行なった「現象学的記述」とゴールドマンやソーブルが行なった「概念分析」の双方の議論を辿りながら、それらの有効性と限界性を見極めようとした。ネーゲルは、サルトルを手掛かりに、二人が互いに相手の興奮を感じて自分もさらに興奮を昂ぶらせていくという「相互人格的認知」を性的行為の規範的なありかたと考え、そうした相互性を欠いた行為を性的倒錯と見做そうとした。しかし、特定の性的行為のありかたの現象学的記述から性的行為の「規範」を短絡的に導き出してしまうところに、彼の問題点があったと思われる。性的行為を感情を伝
Kant refers to the idea of 'Pluralism' in his Anthropologie in pragmatischer Hinsicht. This idea of 'Pluralism' has a close connection with that of 'pragmatische Weltkenntnis', which means 'the knowledge of man as a cosmopolitan.' In this paper, I will argue that these ideas of 'Pluralism' and pragmatic 'Weltkenntnis' play a leading role in Kant's critical philosophy, or the philosophy of cosmopol
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