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2017年1月2日のブックマーク (3件)

  • 元旦から祖父母とインスタントラーメンをすする悲しさ

    「あんたは、なにちゃんだったっけか?」 孫である僕の顔を覗き込む祖母。 まさか自分がこんな、ドラマのワンシーンのような状況に遭遇することになろうとは… 驚愕、混乱、不安、そして、悲しみ。 当に色々な感情を抱いた時、人はどんな表情も作れないのだと、23にして初めて知った。 年末年始、母方の実家に帰ったときのことである。 「けんちゃんだったかしら」 「・・・そうだよ」 引きつりながら笑って頷く。 なんだ、びっくりした。自分の年齢に乗っかった新手のネタか。 これは一わされた。はっはっは。 最初のやり取りはそんな感じだった。 これが当にネタだったなら、どんなに心穏やかに新年を迎えられたことだろう。 おばあちゃんがボケた。 これまでとは違い、決定的に。 名前を聞いてきたことが、冗談ではなく気の確認作業だったのだと気付くのに時間はかからなかった。 当にボケていたのだと最初に確信した時、今ま

    元旦から祖父母とインスタントラーメンをすする悲しさ
  • 日本人戦犯帰国60周年: 3.戦時下の受難、「赦し」の背景。キリノ大統領の恩赦令

    フィリピンBC級戦犯裁判で死刑や有期刑を宣告され、ニュービリビッド(モンテンルパ)刑務所に服役していた100人を超える日人戦犯に対し、ちょうど60年前の1953年7月に恩赦令を出したキリノ大統領。彼は、戦争末期に市民10万人が犠牲になったと言われるマニラ市街戦で子4人を日兵に殺された。永井均・広島市立大学准教授の近著『フィリピンBC級戦犯裁判』(講談社)によれば、キリノ大統領が議会での承認を必要としない特赦で日人戦犯を釈放、減刑した背景には、冷戦の世界情勢や日との賠償交渉の行き詰まり、53年11月の大統領選、助命嘆願運動の高まりや刑務当局の財政軽減などがあったとされる。加えて、キリノ家関係者へのインタビューからは、キリノ政権を支えた弟アントニオ・キリノの進言も大統領の決断を促した、との見方も浮かび上がってくる。(一部敬称略) ▽2歳の幼子を仮埋葬す マニラ戦当時、上院議員だったエ

    日本人戦犯帰国60周年: 3.戦時下の受難、「赦し」の背景。キリノ大統領の恩赦令
  • 2016紅白歌合戦は武田アナと高瀬アナが全部持っていった「熊高の誇り」「サラリーマンの鑑」 #紅白歌合戦

    まままままーくん @muroutti 絶対に笑っていけないニュースの高瀬アナといい武田アナといい今年の紅白はアナウンサーが全部持って行った。 pic.twitter.com/gVSnFEBzxb 2016-12-31 22:57:47

    2016紅白歌合戦は武田アナと高瀬アナが全部持っていった「熊高の誇り」「サラリーマンの鑑」 #紅白歌合戦
    POPOT
    POPOT 2017/01/02