【読売新聞】 麻酔から目覚めると、不思議な感覚に襲われた。いつも左隣にいた兄がいない。「ナンダカナ、ナンダカナ……」。訪日時に覚えた片言の日本語でそうつぶやいた。「何が起きたのか」という意味だった。 1988年10月4日、ベトナム南
コーネリアスでマラソンを走ってみようと思う。(「太陽は僕の敵-The Sun is My Enemy」('93年)のみ) kenzee「フリッパーズ・ギター及び小山田圭吾さんのソロワーク、コーネリアス の音楽はボクの人格形成に強く影響を与えている。小山田さんが歌うのを聴いたのは高校入学の1990年、予備校ブギ主題歌であった。すでに中学時代から音楽好きではあった。時代はバンドブームであったがそういうのとは全然違う音楽。コレ、ジャズとかいうヤツかなよく知らないけど、という印象だった。当時15歳の田舎の子供の感想。それでも6歳上の姉がいたために普通の子より音楽には詳しかったのである。ジャズ風ということが珍しかったわけではない。佐野元春や大江千里の楽曲にもジャズ風に展開するものはある。それらとは何かが違う、と感じたのだ。こういう勘というのは子供のほうが鋭いもので「その手の上の世代とは違うポップス」
終戦記念日によせて 小林カツ代 「キッチンの窓から見えるもの」 2004年8月28日須坂市メセナホールにて 第6回信州岩波講座での講演要旨 2004年8月31日 信濃毎日新聞に掲載 《キッチンから戦争反対》 私が戦争を体験したのは、まだ小さい頃のことだった。ある日、空襲警報が鳴り、母に手を引かれて逃げ回った。焼夷弾で焼けた死体をたくさん見たけれど、幼かったのでそれほど深く何かを感じることもなく大人になった。 父は生粋の大阪の商人で、よく笑い話をする面白い人だった。けれども、毎晩、睡眠薬を飲んでいた。そして、お酒を飲むと、戦争中に中国で体験したことを話した。 「お父ちゃんは気が弱くて一人も殺せなかった」。上官の命令に背いて、どれだけ殴られたか、日本軍がどんなに残酷なことをしたか…。父は泣きながら話していた。 まるで「遊び」のように現地の人を殺す日本兵もいたそうだ。ギョーザや肉饅頭の作り方を教
20日に行われた天皇陛下の会見の全文は以下の通り。 ◇ 《問》天皇陛下として迎えられる最後の誕生日となりました。陛下が皇后さまとともに歩まれてきた日々はまもなく区切りを迎え、皇室は新たな世代…
33年前の夏、日航機123便が群馬県の御巣鷹山に墜落し、死者520人という未曾有の犠牲者を出した。その墜落現場となった上野村の村長は、奇しくも飛行機とは縁の深い男だった。この年からちょうど40年前、日米開戦の日にフィリピンの米軍基地を空襲して大戦果を上げ、以降、連合軍機を圧倒し続け、「無敵零戦」神話をつくった名戦闘機隊長だったのだ。上野村村長を15年にわたって取材した神立氏によれば、戦争で多くの戦友、部下をうしなった村長は、誰よりも墜落事故の犠牲者に寄り添う気持ちが強かったという。 「日本のチベット」で育った自然児が海軍兵学校へ 昭和60(1985)年8月12日、午後6時56分頃、乗員乗客524人を乗せて羽田空港から大阪に向かった日本航空123便ボーイング747SR機が、群馬県多野郡上野村、長野県との県境にほど近い御巣鷹山に墜落。女性4人をのぞく全員、520人が死亡するという、航空史上最大
日本人の海外移住先として注目を集める国、オランダ。実際に移住を果たした日本人の声も聴こえてくるようになり、ますます現実感が増してきました。 今回ライフハッカーでは、日本人のオランダ移住についてオランダ政府はどう考えているのかを探るべく、オランダ経済省 企業誘致局で駐日代表を務めるハンス・カイパース氏にインタビューを行いました。 オランダ大使館にあるオフィスで働く同氏は、オランダ進出を検討する日本企業に対してビジネスや投資環境に関する情報や助言を提供しています。 ハンス・カイパース(Hans Kuijpers) 1993 年から神戸・大阪総領事館にオランダ外務省・文化担当副領事として勤務。2001 年にノーリツ鋼機入社。ノーリツ・ヨーロッパ物流センター(オランダ)副社長、ノーリツ・ ヨーロッパ本社(ドイツ)マーケティング・セールスサポート・マネージャーとして活躍。2007 年からオランダ・ラ
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『私はアポロ計画に1号から14号まで参加していた97歳です。2人の大統領と、大統領になる前からの知り合いでした。』 ハーイ!これが私のおじいさんです。えっと、そう、これは昔の写真。今のおじいさんはこちらです。これもおじいさん。 彼はとても華やかな人生を送って来ました。スレッドのタイトルは、そのほんの一部。他にはこんなこともありました。 アポロ8号とアポロ11号の時は、ラジオ・テレビ関係部署の代理部長を務めていました(本来は副部長だったのですが、その2つのミッションの時は部長が病気だったので)。 彼と奥さんが二度目に顔を合わせたのは、二人の結婚式の日でした。 第二次大戦と朝鮮戦争に従軍していました(いい話がたくさんあります)。 アメリカで当時最年少のイーグルスカウト(訳注: ボーイスカウトの最高位)でした。 バージニア大学に16歳で入学し、18歳で一度退学しましたが、20歳で同級生と一緒に卒
アパラチコラで過ごす優雅な時間 メキシコ湾沿いの入り江に面した米フロリダ州の小さな町アパラチコラ。こじんまりした海辺のホテルに宿泊し、バーで新鮮なシーフードを味わえるほか、地ビールの醸造所もある。綿花や漁業で栄えたこの町には、グリークリバイバル(ギリシャ建築への回帰)様式の優雅な住宅が散見される。数キロの沖合に浮かぶセントジョージ島には白い砂浜が広がる。
スティーブ・ジョブズは「コンピュータはこうあるべきだ」という視点から物事を考えることが出来る稀有な才能を持った人でした。 「こうあるべきだ」という意見は、見方によっては個人の価値観の押し付けに他なりません。 ジョブズはその価値観の押し売りを率先してやりました。 逆に「いま世間で何が売れているか?」を観察し、その時流に迎合した製品を慌てて企画するというやり方を心から軽蔑していました。 これはつまり「is」ではなく「should」に基づいた経営です。 おのずとアップルの製品作りにはジョブズの審美眼が色濃く反映されます。アップルの新製品発表会がエキサイティングだった理由はこの卓越した未来の予見者からの「ご神託」が聞けたからです。 そのジョブズも常に正しかったわけではありません。失敗作もいろいろありました。 彼個人の主観を消費者に押し付けるわけですから、その全てが受け入れられるわけではないのです。
● 7月31日、金沢競馬場第5競走。C3四組1,400?、11頭立て。 11頭の出走馬たちののべ出走回数、1010回。一頭あたり平均出走回数、91.8回。若い4歳馬二頭を除くと、106.8回。つまり、あれだ、かのハルウララ級がずらり並んでいる、そんな競馬だとまずおぼしめせ。 ああ、これぞ地方競馬のその他おおぜい、日々繰り返されている仕事としての競馬の、どこにでもあるレースのひとつ。いつもと同じ、いつも変わらぬありふれたちいさな競馬。 しかし、それでも競馬は競馬。勝負である。勝ち負けである。だから、身体を張ったかけひきもあれば、命のやりとりだってそこにある。決して大げさでなく、淡々とした事実として。だから、勝負の当事者たちはいつも同じ、知恵をしぼるし緊張もする。 馬の名は、タノムバンチョウ。父はオフサイドトラップ、母はアグネスラークの牡馬8歳。早来は吉田浩三生産の栗毛馬。2005年10月、ホ
第十七回 ゴルフ大好き! 気配り上手の優しいママの大森<M> 「おおもり」とワープロに入力しても「大盛り」とまず出てしまう自分に反省の今日このごろ。かつては京浜工業地帯のゲートウェイとして栄えた大森駅東口商店街も、いまは古色を帯びた飲食店が目立ち、静かな余生を迎えている感じだ。 七輪でホルモンを焼いて出す店や、ワインと和牛ステーキの店などと並んで、飲食街の一角に「M」というシンプルな店名のスナックがある。迎田富美子ママが、自分の頭文字を取って10年ほど前に始めた店だ。 入るとカウンターがあって、奥に広いボックス席。ママのほかに女の子が常時3人ほど、元気に働いている。お客さんは年配客中心だが、熊本出身らしく(?)なんでもハキハキものを言う"毒舌"(笑)と、若いころはミス熊本だったという噂もあり、写真雑誌のモデルなどをつとめていたほどの美貌を誇る、ママの魅力に惹かれて通いつめる常連さんが多
祖母いずこ 感傷と追憶の湘南行き。そこで、またひとつ向き合わねばならない存在があった。鎌倉の家でともに暮らしていた父方の祖母である。一家離散ののち、彼女はアパートで独り暮らしをしている。独居老人である。週末には私のおじが泊まりに戻るが、生まれてはじめての独り暮らしをしているのだ。 その祖母と会ったのは、離散後一回きりである。一度だけたずねたことがある。母と弟と一緒だった。何かの用事のついでだった。ちょっと顔を見せるという程度だった。別れ際はさみしそうだった。それっきりだった。それっきりなのは、ある種のわだかまりがあるというのも本心だし、たんに面倒くさいから、というのも本心だ。 だが、今回、自転車でモノレールの下を走り、失われた我が家を訪れるのに、その通り道に住む祖母に会わないわけにはいかない。こんな機会がなければ、会うこともない。 私は意を決して、細い路地に入った。入って、適当に進み、気づ
宮間英次郎 2011年、横浜にて 宮間 英次郎(みやま えいじろう、1934年 - 2024年6月13日)は、横浜市中区の寿町の簡易宿泊所に住みながら、自らが制作した大きな被り物[注 1]をかぶり、街中を練り歩くパフォーマンスを行っていた日本のアウトサイダー・アーティスト。通称「帽子おじさん」[1]。 宮間英次郎は1934年(昭和9年)、三重県伊勢市の二見浦に生まれた[2]。幼い頃は引っ込み思案で勉強も出来ず、いじめを受けていたこともあった[3]。中学校卒業後は2〜3年二見浦にいたが、その後名古屋へ出てボーイの仕事を2〜3年、それから自衛隊に入隊するが、2年で辞めてしまう。 宮間はその後、建設現場の労働者、大型トラックの運転手、廃品回収業など職を点々とするようになった。名古屋でちり紙交換の仕事に従事していた時は、通常録音を流すことで済ませる口上を自らマイクを持って演じ、評判になったこともあ
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