まもなく戦後73年目の夏がやってくる。先の太平洋戦争にまつわるさまざまな検証がなされているが、経済史、行政史で記憶の外に置かれているのが宮崎経済モデルと呼ばれるものだ。同モデルが戦後の復興政策立案過程で採用された事実は公的に語られることはなかった--。 満州産業開発第一次5カ年計画を、参謀本部作戦課長職にあった石原莞爾の庇護(ひご)のもと設計したのは、宮崎正義という満鉄調査部員だった。石原が考える「世界最終戦争論」を実行するために必要な満州に軍事工厰を建設するのが目的の計画で、これを往時の人たちは満州経済モデルと呼んだ。 グランドデザインを描いたのは宮崎だが、実施計画を練り上げたのは「大蔵省第一次満州国派遣団」などの渡満組で、岸信介、星野直樹、武部六蔵、椎名悦三郎、古海忠之、田中恭、美濃部洋次、佐々木義武、向坂正男、田村敏雄など、多くの高級官僚が関与した。 宮崎正義の立案した満州経済モデル