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ブックマーク / sivad.hatenablog.com (6)

  • 学問に潜む価値判断について - 赤の女王とお茶を

    疑似科学、批判、道徳。 や、 dojinさんへの応答 を読んで感じたんですが。 まず、 「科学は価値判断を含まない」 ということ、これは科学とは「地図」であるでも書いたように、基的には正しいと思います。科学は"How"を明らかにするけれど、"Why"には答えない、というのはつまり、道筋を明らかにはするけれど目的地を決めるわけではない、ということです。 生命や宇宙が「どのように」存在しているのか、存在してきたのかを探る方法ですが、「なぜ」そうでなくてはならないのか、という究極には答えない。 …とはいうものの、主観的な価値判断と科学・学問が無縁かといえばさにあらず。 専攻する分野によって、なんとなく価値観が似てくるというのは経験的にはよくあることですね。 それはやはり、科学といえども単なる分析方法だけではなく、一種の「世界観」、つまり価値判断を予め含んでいるからではないでしょうか。 それが「

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  • 赤の女王とお茶を 茂木と梅田のいる場所は既に科学者が2000年に通過した場所

    科学者に衝撃を与えた「ロマンティックでない」グーグル 今頃何をいってるんだか。この人たちはかの「ヒトゲノム・プロジェクト」を忘れたのか? 特に茂木さん、生命科学研究の歴史を知らないんでしょうか。 あの頃も一種の狂騒状態で、バイオ研究者のすることはなくなるんじゃないかというまことしやかな説が飛び交ったもんです。 確かに遺伝子情報が誰でも手に入れられるようになり、それまでの単に遺伝子を同定しただけで論文が書けていた時代は終わりました。 しかし生命科学研究は終わるどころか、一層白熱しています。機械的な遺伝子配列の解読をしなくてすむようになったおかげで、より「人間的な能力」が研究にとって重要になりつつあります。 それは生物学的意味づけであり、根源的な洞察であり、観察と直観であり、イマジネーションの力なのです。 情報格差を利用して知識を切り貼りし、それっぽいハッタリでっている人たちにはやや危機的な

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  • 生存適者日記 - 責任と原因は違う

    http://blog.tatsuru.com/archives/001389.php 恒例、内田センセ曖昧説。 これはですねー、典型的な責任と原因の混同なわけですよ。以前も書きましたが、日語はこの誤りを犯しやすいんですね。 例えば「〜(誰々)が・も悪い」という言い方。 よくあるのは「虐められるほうも悪い」とか「騙されるほうが悪い」ですか。 虐められたり詐欺にあう場合、被害者にもその「原因」は当然あるでしょう。ですがそれは「責任」があるということではない。しかし、「悪い」という表現では、同時に「責任」まで付加されてしまうのです。 「原因」というのは科学的な因果関係があるということです。 それに対して、「責任」というのは社会的なルールによって決められた「義務」です。つまりその範囲はできるだけ予め決まっているべきものです。 ここんとこやたら「責任」に関するトラブルが多いのは、それを予め決めて

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  • 因果関係は責任関係ではない - 赤の女王とお茶を

    当は、できるでしょう?」の原初的風景 ホームレスの人を助けるべきか ある行為がある現象の原因になっている、あるいはなっている可能性がある、なんてことはそれこそ無限に言える話。 ホームレスの人に8000円渡して病院に行かせたために医療ミスで逆に障害を負ってしまうかもしれないし、医師の手が塞がって他の重症患者が手遅れになってしまうかもしれない。その8000円をアフガンに送ればもっと多くの人命が救えたかもしれないし、逆に武器になって人を殺すかもしれません。お腹の子を産めば不幸になるかもしれないし、誰かを不幸にするかもしれない。そうやって考えている内に手を動かせば誰かの命が救えたかもしれないし、救えないかもしれない。 そういうあらゆる因果を「責任」として捉える立場があっても別に構いませんが、その場合「責任」という概念自体が無意味になってしまうでしょう。 「責任」というのは自然における因果を示す

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  • 個別に、それでいて結束して。

    すなわち、STAND ALONE COMPLEX。 虹の彼方に見えるもの〜辺見庸講演会に参加して 繰り返し書いているように、民主主義システムの強みたる「集団知」が機能するには、その「多様な」構成員おのおのが「個別に」価値や物事を判断することが必要条件となっています。 これはおそらく経済学における「合理的経済人」でも同様で、市場がうまく機能するためにも必要な条件といえるでしょう。 にもかかわらず、「多様で」「個別な」だけでは社会的な力になり得ない。 結束力の武器 集団知が機能するには、「集約性」というもう一つの条件が必要なのです。 今の日に多様性や個別性がないとは思いません。 むしろ、それらをうまく集約するシステムがない。 私がよく付き合う技術者や研究者、芸術家には「多様で」「個別な」人たちが沢山いると感じます。 しかし、社会的な力にならない。 そうしているうちに、「多様性」や「個別性」を

    個別に、それでいて結束して。
  • 赤の女王とお茶を - 日本の理系が敗北するたった一つのシンプルな理由

    残業代を払えない経営者は無能である 有能な経営者を期待したら負けである なかなか面白くなってまいりました。 経営に関することは御大二人にお任せするとして、私はこれを一種の「理系哀歌」モノとして読みました。 ですが実は、日技術者や研究者の社会的立場がいつまでたっても弱く、「搾取」され続ける理由は明白なんです。 支持団体がないから これですよ。 もちろん瑣末な理由はいくらでも出して来れますが、社会的に観るならば間違いなくコレです。 例えば米国。 かの国には世界最大・最強の理系支持団体、 "AAAS (American Association for the Advancement of Science)" があります。 262の支部と1000万人の加入者を誇るこのNPOは世界最高峰の科学雑誌「Science」の発行元として有名ですが、ホームページを読めばその活動はまさに「アメリカ理系力」の

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