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ブックマーク / pikarrr.hatenadiary.org (47)

  • 「どうして人を殺してはいけないのですか?」 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    「死」の心身二元性 「死」とは、概念です。この概念は「人間」のみに可能です。動物は「殺す」ことはありません。「死」の概念がないので、「他者を潰そう」ということはあっても、そこに「死」への目的性はありません。 (「人間」の)「死」という概念は、「この私」という個人の尊重によって、生まれています。「この私」というとき、「死」は最高の「強度」をもち、逆に「集団の中の一人」のとき、いわば身体を形成する1細胞という集団の新陳代謝の1個体のように「死」の「強度」は低下します。 だから「殺す」=「他者を死へ至らしめる」ということは、「他者」とは「この私」の反転としての「このあなた」であり、個人の尊重された存在であり、「殺す」という概念には、すでに始めに「禁止」が内在されているのです。 このように「死」、「殺す」という言説を考えるとき、「人間としの人」と「動物としての人」の二面性、「心身二元性」を見る必要

    「どうして人を殺してはいけないのですか?」 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • なぜ人々はマッチョ化するのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    ■「マッチョ化」させる場 セックスの話になると、100%出てくるのが、女性を商品として消費したという「マッチョ」な性体験の話である。まさにここにあるのは、童貞蔑視の裏面です。「セックスマッチョの優越」です。「セックスマッチョ物語」では、そこには男女の差がありません。女性も「マッチョ」化しています。女を商品化するように語る男も、女に商品化され、語られている、ということ。ベタには「から騒ぎ」的ということです。 浮気などを、テレビなのでは、マッチョに告白することは、許されるみたいない感じがあります。タレントはむしろテレビでマッチョに自己暴露します。テレビという公共の場で、むしろ暴露することで、許されるという感じがあります。 2ちゃんねるもマッチョな場として作動しています。たとえば、2ちゃんねるでの民族的なヘイトスピーチなどもここまで反社会的なことが言える俺様をみて、というマッチョ的です。これは、

    なぜ人々はマッチョ化するのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
    REV
    REV 2006/03/09
  • 「自由に享楽させろ」  享楽自由主義の時代 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    ①「社会的」欲望と「脱社会的」享楽 強烈な生物学的快感は享楽として、社会的に禁止(去勢)されている。しかしバーチャル技術はそれを可能にしつつある。享楽に溺れるものは社会活動に支障をきたすだろう。そして享楽の場は広がっている。ゲーム、容易なセックス、ネットコミュニケーションなとなど。 それは言語が溶解する地点である。欲望はその前で踏みとどまらせるための社会(言語)的機能である。欲望は構造化されたイメージ、すなわち社会(言語)に許容される対象を欲望するが、享楽にはイメージはない。ただ身体的、生物学的、社会(言語)外にある快感である。 SMは社会的であり、「(社会的な)反社会的」イメージの欲望である。社会的に高い地位の人にSM指向が強いと言われるのは、社会性に対する反社会がその快感の原動力になっているからだ。しかしドラッグそのもの快楽にはイメージはない。ドラッグへ向かうとき、はじめは「(社会的な

  • 「クオリア」はなぜ語りえないのか。 その2 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    ■僕たちは限りなく同じである。 「「クオリア」はなぜ語りえないのか。」(http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20051222)で示しましたが、クオリア(意味)が語り得ないのは、対象があり、意味へと変換するのは、因果律ではなく、その間に解釈項が入るためです。意味が主観であるのは、解釈項が「私」であるからです。だから私の解釈とあなたの解釈は異なる故に、対象のクオリア(意味)は主観であり、語り得ないのです。 しかし意味が主観だけでは、間主観性、すなわちコミュニケーションがなりたちません。そのために解釈項は「限りなく同じ」なのです。すなわち、あなたと私は「限りなく同じ」なのです。 クオリア(意味)=①遺伝子による進化上の経験+②言語による文明的経験+③生まれてからの記憶された経験 ボクがこのようにいうときに、「①遺伝子による進化上の経験」は人間では限りなく共通です(時間的に

    「クオリア」はなぜ語りえないのか。 その2 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • 「クオリア」はなぜ語りえないのか。 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    クオリア・マニフェスト 茂木健一郎 http://www.qualia-manifesto.com/manifesto.j.html 私たちの世界観の中で心的現象が来占める重要性に対するいきいきとした感受性を持ち、心の中の様々な表象(representation、Vorstellung)の重要性を指摘したのが、フッサール、ハイデガーらの現象学者たちであった。 私たちの心の中のクオリアを「私」が見るという構造は、「私」という「主観性」(subjectivity)の構造に支えられている。「私が赤を見る」という心的体験のうち、「赤」の「赤い感じ」がクオリアであり、一方、「私が○○を見る」という構造が主観性である。このように、クオリアと主観性は、表裏一体の関係にある。これが、私たちがクオリアと主観性を同一のフレームワークの中で理解しなければならない理由である。 主観性の起源の解明のためには、クオ

    「クオリア」はなぜ語りえないのか。 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • ジャングル化する社会を生き抜く3つの方法 その2 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    ⑦ジャングル化する社会を生き抜く3つの方法 ジャングル化する社会を生き抜く方法とは、簡単に言えばいかに「生き生き」しつづけるかということです。 かつてのサバイバルが豊かさによる「生死」であったのに対して、現代においては「生き生き」できないものは「落ちてゆく」 。「生き生き」することが「生死」を賭けるサバイバルである。 1)フリーターの知・・・「ヘタレサイクルを回せ!」 ジャングル化した社会で、現代の豊かさになれ甘えた人々が生き抜くには保守化する必要があるだろう。適度な欲望を解消し、耐え続ける。そして少しでも緩和するために、「ヘタレサイクルを回す。」ゲームを楽しみ、オタク的にちょっとしたクリエイトもして、仕事のほどほどにこなす(これをぼくは「ヘタレサイクル」*1と呼ぶ)もしか、もしか、もしかすると、直木賞でも取れたりして・・・ていうささやかな楽しみで生きる。そして回帰する「私とはなに?」、「

    ジャングル化する社会を生き抜く3つの方法 その2 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • 続 なぜ「空気が読めないことが最も嫌われる」のか? - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    ■社会的コンテクスト VS 個人的コンテクスト 考える名無しさん もう嫌です。自分の生活は自分の自由にはならない。ぴかぁ〜さんの言うとおり、親にわせていただいて、親のスネを齧る羞恥に俺はまみれている。自分でうとするなら、俺はその仕事に束縛される。少ない余暇でさえもはや仕事のために消えていき、自由に生きられない。結局ニートになろうが、マジメな人間になろうが、他人によって縛られるような生活しかありえない。 死にたいとおもっても死ぬのは怖い。何もかも手放す覚悟も、生命を放棄する一連の現実的な手続きも怖い。簡単に一瞬で消えるならまだしも、血を流して体を痛めつけるのが怖い。 ホームレスにもなりたくない。冷房がなくてPCも触れなくて汚い飯くって何も読まず何も聴かず恥だけを垂らしながら、生きるのも嫌だ。生まれてこなきゃ良かった。生まれてきたくなんかなかった。もう嫌だ。 現実に常に支配されて自由になら

    REV
    REV 2005/11/09
    「幼児的全能感から抜け出せず、高い「プライド」、低い「自己信頼」で「脱社会的な存在」に」←オレオレ