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ブックマーク / pikarrr.hatenadiary.org (47)

  • なぜ格差は広がっているのにアベノミクスが支持されるのか - 第三の波平ブログ

    ピケティの「21世紀の資」が自由主義に与えた衝撃 自由主義は、自由競争を徹底すれば機会の平等が得られるという思想である。誰にでも均等に成功のチャンスはある。格差は結果でしかなく、敗者は再び成功に向かってチャレンジすればよい。その象徴がアメリカンドリームだ。現在の経済学は単なる科学ではなく、このような思想をもとにしている。 ピケティの「21世紀の資」(ISBN:4622078767)はここに楔を打ち込んだ。過去の資を分析した結果、資主義は原理的に固定した格差を生み出す。金持ちはより金持ちに貧乏人は貧乏人のままで、それが資主義の原理であると。それは、ピケティが資主義の第一法則と呼ぶもので単純に表せた。資の平均年間収益率r>経済成長率g さらにピケティは、なぜ現在の経済学がこのような間違いを犯したか、説明する。それは戦争である。世界大戦で、金持ちの資産は解体した。そのために戦後は、

    なぜ格差は広がっているのにアベノミクスが支持されるのか - 第三の波平ブログ
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    REV 2015/01/19
     円高不況で製造業はジリ貧だったからな… このまま、円高ABCD包囲陣にジリジリとやられる前に、乾坤一擲!
  • 怠業(たいぎょう)と勤勉のダブルバインド - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    1) NHKスペシャル「権力の懐に飛び込んだ男」 NHKスペシャルで湯浅氏が政府に参画し、「貧困・困窮者支援」活動をするドキュメンタリーをみた。1人で走り回る湯浅氏。それを無表情でみる公務員たち。そうなんだ、公務員ってこうなんだな。彼らに貧困者のために懸命になる理由なんかない。ただの事務仕事の一つでしかない。 ネオリベラルの「小さな政府」が格差を生んだとその弊害が批判されているが、そもそも疲弊した「大きな政府」への反動としてネオリベラリズムは支持された。そしていまも公務員は非生産的である。なぜなら彼らには競争がないから。 NHKスペシャル「権力の懐に飛び込んだ男100日の記録」  http://www.nhk.or.jp/special/onair/100228.html 1年前、”年越し派遣村”の村長を務めた湯浅誠氏。NPOとして在野で活動を続けてきた彼が政府に招かれ、昨年秋から内閣府の

    怠業(たいぎょう)と勤勉のダブルバインド - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
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    REV 2010/04/12
    警察も消防も自衛隊も民営化すればいいのに。PMSCsみたいに能率的に業務を遂行するんじゃね?
  • パソコンがウェブユーザーにフリーを訓練したように携帯端末は課金を訓練する - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    サイバースペースの独立性 汚物にまみれた産業界と癒着した世界中の政府に告げる。醜く肥え太り正常な判断力を失った貴様等忌むべき独活の大木どもよ、私は魂の新世界、電脳空間からの使者だ。やがて訪れる未来の為に言う、我々に干渉しないでくれたまえ。貴様等は我々にとって歓迎すべからざる存在だ。この電脳世界に集う我々に対して貴様等は統治する術など持ってはおるまい。 ・・・我々は電脳世界に魂の文明を造り上げる。それはきっと貴様等が造り上げた世界よりはるかに人間的で素晴らしい世界となるだろう。 一九九六年 二月 八日 ジョン・ペリィ・バァロウ サイバー反体制派 電子フロンティア財団共同設立者 http://www.asyura.com/2003/dispute6/msg/284.html ウェブにはその始めから実社会とは異なる独立性をもってきた。国家とは異なる秩序、資主義とは異なるエコノミー、そして新たな

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    REV 2010/01/26
    Facebook対twitter…は戦いにはならないのか。
  • ネオリベラリズムは「貨幣依存」から「他者回避」そして「信用格差」へ - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    マクドナルドとごはんパックとトイレクイックル 「他者回避」とはたとえばマクドナルドですね。女性が1人で外するのは大変らしいですね。男なら吉牛でも定屋でもがつがつえばいいわけですが、世間体があるのかそうもいかない。でもマクドナルドでは女性一人は当たり前ですね。マクドナルドがある安心感。 百円のごはんパックはすごいですね。レンジでチンしてあったかご飯。またこれがうまい。へたに自分で炊くよりうまい。かまどで人が張りついて火加減調整した時代から比べたら、コンビニで百円で買ってチンですから。 あと、トイレクイックル。濡れシートで便器を拭いてそのまま捨てる。水に溶けるので。雑巾で濡らして拭いてしぼって乾拭きしての手間はいらない。最新の便器は自動で便器の蓋が開くとか。生活のすみのすみまで商品が入り込んでいる。そりゃ結婚率も下がりますね。 生存が他者との強い協力関係の上に成り立っていた時代から、近代

    ネオリベラリズムは「貨幣依存」から「他者回避」そして「信用格差」へ - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
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    REV 2009/12/06
  • なぜ自由主義は格差を生むのか  - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    自由主義の楽観的信頼 近代の自由主義経済は、基的に「社会的信頼」の上に成り立っている。アダムスミスの「神の手」、あるいは同士ヒュームのコンベンション(慣習)など。社会なぜ機能するのか。ホッブズの君主との契約説やロックの自然権説などとは異なり、自由主義者は、人々が社会を存在させようとふるまうことで機能していると考える。これが社会的な信頼だ。 このような古典自由主義の「社会的信頼」があるから大丈夫と考えるのは楽観主義でありそう単純ではないだろう。確かにみなが社会的な慣習(コンベンション)に従いふるまうし、人が同じようにふるまうだろうという信頼関係で成り立っている。しかしそれとともに、信頼関係は家族、友達、母校、地域、国(ナショナリズム)などのように、協力とともに排他も生み、偏在する。その一つが富める者たちが大衆を排他し富を独占する協力関係を形成する「上流層」である。 ハイエクのリバタリアン(

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    REV 2009/07/27
  • なぜ日本経済を活性化するために「社会活動」参加への意識改革が必要なのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    「考える名無しさん」 http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1235732743/633-634 息詰まるような濃密なゲマインシャフトを用意せよ、なんて私は言っているのではありません。適度な地域共同体、もしくは精神的なバッファーになるような何らかのコミュニティがあればいいと言っているのです。 親しき中にも礼儀ありで、私は家族間同士でもそれなりの節度をもって関わるべきだと思っており、どこかの歯科医師一家での殺人事件のように浪人でノイローゼになっているような人間に「夢がないんだね」などとしつこく愚弄するような調子で言うと、自分の持っていた女優になるという夢が一瞬でバラバラになってしまったように。これは人間関係の教訓として、私達もこの事件から学ぶべきでしょう。それは相手の心を想像してあげるという、単純なこと。 それで派遣を中途で切られてすぐにホー

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    REV 2009/04/03
    「まるで異邦人が他国で一人で生きているような有様ではないでしょうか。」部分的に空目した
  • なぜ資本主義は生き残るのか  - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    129 名前: 考える名無しさん 投稿日: 2009/03/10(火) 15:07:19 市場からの的確迅速な撤退等、ポートフォリオ理論に基づくリスク管理と、新規の有望産業に資資源(ヒト、モノ、カネ)の展開を、ある程度、長期に可能にさせていくことができる規模になったものが産業資であり、金融資。 そして、その資を有し、それをオペレートするプレイヤー(資家)も絶えず入替る。資家も産業/商品市場を大きく読み違えれば、ありふれた債務者として葬られていく。市場において、永続可能な資家などという神話などないよ。 「経済の裏面」としての社会的、政治的 富が偏在しているという事実があります。そして持っている者は、思いの外入れ替わっていない。誰かが成功したとき、凋落した時は表に出るが、継続しているときは静かにしているものです。リスク管理など言っているのは、独占の経済的な面でしかなくて、そこには

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    REV 2009/03/17
  • なぜオタクは女を抱きあきたのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    商品として構造化される女性身体 形而上学の表れの特徴はデリダも指摘したように二項対立にある。精神と身体、動物と人間。まったく同様な意味で女性の裸体は形而上学的である。処女と非処女。性器と非性器、乳首と非乳首。 処女と非処女。処女信仰は古くからあるが、いまも男性に、すなわち社会で根強く信仰されている。乳首と非乳首。グラビアアイドルが乳首を出すか、出さないかは大きな境界となるだろう。異なる職業に分類されるといってもいい。 性器と非性器もまた不可思議だ。特に日では性器の描写は禁止されている。猥褻罪でつかまった写真家が性器の写真を前にどこまでが性器か線をひけと、警察に詰め寄ったという話がある。このように女性の身体は形而上学的二項対立により切り刻まれ、構造化されている。 ・・・化粧をする/髪をそめる/ピアスをあける/卑猥なことをいう/キスをする/ビキニ水着をきる/乳首をみせる/ペッティングをする/

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    REV 2008/10/24
  • 「加藤」はなぜ「電車男」になれなかったのか 思想地図シンポレポを読んで - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    思想地図シンポジウム「公共性とエリート主義」 思想地図シンポジウム「公共性とエリート主義」に関してのレポートがいくつか上がっている。読んで考えたことを書いてみる。ボクは参加していなので、あくまでレポートを読んで感想である。 トラカレ! 『思想地図』発刊記念シンポジウム「公共性とエリート主義」レポまとめ http://torakare.com/archives/920 特に参照した 思想地図シンポジウムレポート - the deconstruKction of right http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20080617/1213688976 宮台と東の考え方については、以下のようなエントリーでいままで言及してきた。東が考えるのは、「政治の環境管理化」、極端に言えば政治は環境管理システムによって行うことを目指せないか。宮台は流動性が高い今だからこそ、政治

    「加藤」はなぜ「電車男」になれなかったのか 思想地図シンポレポを読んで - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
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    REV 2008/06/21
  • なぜ村上春樹はオタクよりもタフなのか その4 物語への転倒 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    DNA配列の危険 西洋哲学の根底には、人間/動物という対立が流れてきました。ギリシャ時代でいえば、人間とは労働から解放され、社会の中で自由で平等に振るまえる主人です。動物は奴隷など主人に従い、労働に従事するものです。今ではわかりにくいですが、このような人間/動物対立は科学的な客観性に相当するほど常識的なものでした。 大航海時代に有色人種に行われた非道は、同じ優秀な人間として認められていなかったという、常識を背景にしている面があります。あるいはナチスなどの優生学までもこの系譜はみることができるでしょう。人は生まれか、教育かという議論は最近までなされ、人間には優秀な人間から、下等な人間が存在すると信じられていました。 現代は、DNAの発見によって、人間/動物対立は科学的客観的なものになりました。もはや人間/動物という非常識な対立は遠い過去です。といえるでしょうか。 新たな科学的な還元主義を背景

    なぜ村上春樹はオタクよりもタフなのか その4 物語への転倒 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
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    REV 2008/02/07
  • なぜ村上春樹はオタクよりもタフなのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    不安と孤独の強度 現代において、人が立ち向かわなければならないものは、世界において自分は多くの一人であるということ、そしてもし自分がいなくなっても明日は変わらずくるということだ。 この強度を受け入れることはそう簡単なことではない。人はこの強度による不安と孤独であわてふためき、逃亡をはかる。現代のテクノロジーが教えてくれるのは、よりよい逃亡の方法である。ゲームであり、ネットであり、お手軽なコミュニケーションによって、すみやかに逃亡を手助けする。 なぜこれほどに大量の消費が必要であるのかは、この孤独によるものだ。すなわち資主義経済が成立するのはこのような原理によるとともに、資主義経済は自由と平等と言う名の孤独を発明したともいえるだろう。 動物化とスノビズム このような現代において生きる道は二つある。先のように資主義的な消費の熱狂に没入するか、あるいはあえて消費を抑制し、原理主義的な禁欲な

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    REV 2008/02/05
    そのタフさがあれば、宇宙服なしで月に行けるかな。
  • なぜお金はすべてなのか 純粋贈与と、贈与と、交換(全体)  - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    1 純粋贈与と、贈与と、交換 2 貨幣への負債感 3 科学技術−国家(法)−貨幣 4 貨幣交換世界の正当性 5 神々の闘争 1 純粋贈与と、贈与と、交換 幸運と神 たとえば宝くじで10億円当たってしまうと、どのような気持ちになるのだろうか。それは飛び上がるほどのうれしさであるとともに、不安になるのではないだろうか。無償で大金を贈与されることの罪悪感がともなうだろう。 このために宗教への帰属とは関係なく、漠然と神に感謝するだろう。それはこの罪悪感(負債感)を解消するために必要な返礼する他者を想定する。神へ感謝することで返礼する。あるいは慈善団体へ一部寄付することもあるだろう。また知り合いに祝儀を振る舞うだろう。 これはつゆ払いであるとともに、負債感の解消行為である。このような散財による贈与は、神=超越的な他者への返礼であり、負債感の解消である。これは迷信のようなものであるだけでなく、経済的な

    なぜお金はすべてなのか 純粋贈与と、贈与と、交換(全体)  - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
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    REV 2007/10/03
  • なぜお金がすべてなのか(仮) その2 貨幣への負債感 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    現実の貨幣交換はどこまで純粋か 「交換において負債感は生じない。というよりも正確には、負債感の持続時間がゼロである。商品Aと商品Bを当の意味で等価交換したならば、双方には心理的な貸し借りの感情は、生じるとしても瞬時に、その場で相殺されるだろう。(中野)」というとき、現実の貨幣による等価交換はどこまで負債感の持続時間がゼロである純粋な交換でだろうか。 たとえばある電化製品を買った。しかしそれは期待したような特性を満たしていなかった。それは不良ということではなく、消費者が勝手に期待したものであり、製造メーカーにクレームを言うものではない。たとえば人はブランドへの信用で商品を買う場合にこのようなことが起こる。ソニーの製品だから期待して買ったのに・・・。 ここでは貨幣による等価交換が行われているが、負債感の持続時間がゼロである純粋な交換とはいえない。ブランドとは、信用という形で負債感を引き受ける

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    REV 2007/10/01
  • なぜオタクは現代をたくましく生き残れるのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    情報過多による無気力と退避 子供は現実的な情報が少なく、突拍子もない様々な物語を作り出す。親はそこに適切な情報を与えることで、社会への順応性をつけさせる。しかし過保護による過剰な情報提供は物語る力を阻害する。物語は未来へと生きる力の源泉である。そしてまた折り合いをつけながら、物語と現実の間を生きることで、生きる持続力を養う。このために安易な情報提供は、物語ることを挫き、「結局人は死ぬんだから」という相対主義的な無気力、あるいは現実との衝突に耐えられず物語への退避し、現実から逃避する。 このような問題は、過保護な子供だけでなく、情報社会の問題である。情報化社会では大量の情報は失敗することのリスク回避に役立つが、人々が物語ることを困難にする。このために、生きる力と持続力を弱めて、人は安全な予測可能性の殻にに閉じ込もり、自ら動くことが恐くなる。 「癒し」の不健全さ このような情報過多の閉塞では、

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    REV 2007/08/29
  • なぜ「動物化」は現代を生き残るための戦略なのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    「ソウゾウ性」と動物化 人が生きるためには、想像を創造することが必要だ。「ソウゾウ(創造、想像)性」とは未来への可能性であり、そこに向かおうとすることで生きる力が生まれる。しかし想像はどこまでも虚像である。それは虚像であるからこそ柔軟に創造される。そして虚像を創造するために現状をこえて錯覚することが必要である。 ソウゾウすることは、「命がけの飛躍」であり、現状から飛躍するにはリスクが生まれる。そしてリスク回避のために人は情報収集を行うだろう。情報が少ない時代には、そのような試みに対しても、解答が得られず、夢をみることを容易にした。そしてそこに貧しくても(貧しいからこそ)、ハングリー精神(生きる力)がうまれえた。 現代の情報過多の時代、夢をみることが難しくなっている。ソウゾウする前に、多くの情報が提供されてしまう。それは生きる上で失敗をさけ、リスク回避としては有用であるが、諦めとともに、足元

    なぜ「動物化」は現代を生き残るための戦略なのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
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    REV 2007/08/23
  • 「なぜCanCam的「めちゃモテ」のひとり勝ちなのか」 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    「エビちゃん」という新しい「正しさ」の圧力 通勤電車付近というのは、殺伐としてむさ苦しいものである。そんな中で、いまならばエビちゃん風など流行りのファッションをしている女性を見つけると、なにかドキッとするものだ。単にかわいい女性というよりも、流行りのファッションを身にまとっていると、それだけで引かれるモノがあることを感じる。 これは、そのファッションのもつ魅力であるとともに、そこに新しい「コミュニティ」を見るからではないだろうか。そのファッションを指示する多くの若い女性たちという「コミュニティ」であり、そこに新しい「正しさ」がある。その「正しさ」は漠然としたボリュームを暗示する「コミュニティ」という圧力として働くある種の虚像であり、だから早すぎても、遅すぎるてもダメなのである。 「なぜCanCamの「ひとり勝ち」なのか」 と、考えていると、CanCamの「ひとり勝ち」状態について、女子大生

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    REV 2007/06/28
    あむらー?
  • まなざしの快楽 - なぜ「感情労働」は「マクドナルド化」によって対処されるのか

    「感情労働」時代の過酷 以下の「「感情労働」時代の過酷」の記事は現代の傾向を象徴しているのではないだろうか。 「感情労働」時代の過酷 (AERA:2007年06月04日号)  http://www.asahi.com/job/special/TKY200706050068.html 看護の領域などで知られる、「感情労働」という言葉がある。「肉体労働」「頭脳労働」と並ぶ言葉で、人間を相手とするために高度な感情コントロールが必要とされる仕事をさすものだ。・・・平たく言えば、働き手が表情や声や態度でその場に適正な感情を演出することが職務として求められており、来の感情を押し殺さなくてはやりぬけない仕事のことだ。・・・そしてここにきて、この「感情労働」があらゆる職種に広がり始めている。 ・・・「ひと相手の仕事は昔からあっただろうと、働く側の問題点を指摘する声もありますが、一概にそうではないと考えま

    まなざしの快楽 - なぜ「感情労働」は「マクドナルド化」によって対処されるのか
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    REV 2007/06/11
  • なぜ「ネットカフェ難民」という「神話」は語られるのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    ネットカフェ難民は演出か 「愛・蔵太の少し調べて書く日記」の「[ネタ]ネットカフェ難民なんてただの報道の演出です」http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20070506/nanminがおもしろい。ネットカフェ難民が演出かどうかは別にしても、誰もがなにかあやしい感じをもっているのではないだろうか。それは、先のエントリーでも書かれているが、ネットカフェに泊まるぐらいなら、ボロアパートに住むのは難しくないだろう。現にボロアパートは存続し、棲んでいる人々がいるわけだし。あるいは家族はいないのか、一種の家出であり、貧しさとは関係がないのではないか。 最近は格差、ワーキングプアが語られるが、これらの議論でも同じような議論がある。貧しいといっても、世界の貧困状況に比べれば、たいしたことがないということだ。日では、下流という人々がTVなどの電化製品は一式持っていることは当た

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    REV 2007/05/10
  • オタクはネットでおばちゃん化するか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    第三の波平 オタクってなにか不気味な人々という感じから「動物化」と名付けられて、人々が納得し、そしてオタク自身も安心した。しかしネットの普及の中で明らかになったのは、なんだよ、ただの「おばちゃん」じゃん!ということ。なにも違わない人間くさい人々だったということでは? ギートステイトで動物管理がどうこうといっても、もはやリアリティがないのではないでしょうか。社会が管理社会化、工学化していることは否定しないが、それとともにネットで、オタクはよくしゃべる。ネットによって、オタク幻想は終わったといっても良いのでは。オタクが特に「動物化」しているという選民性はどこにもないような。 考える名無しさん 面白いんだけどネット上の掲示板やブログにおいて、という文脈だけからオタクのおしゃべりを見て、ネットを介さない対面的状況、という文脈だけからおばちゃんのおしゃべりを見て、両者を比較検討してもあんまり……とい

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    REV 2007/03/19
  • なぜボクたちはマクドナルドへ向かうのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    マクドナルド化社会」 ボクがいう資主義システムによる「コンビニエンスな」解決とは、「マクドナルド化する社会」(ISBN:4657994131)に対応するだろう。しかしこれでは、なぜボクたちがマクドナルドへ向かうのか、の説明にはなってのではないだろうか。 20世紀の初頭に、ヘンリー・フォードによって生み出された生産体系に「フォーディズム」というものがある。フォードが生み出した『大量生産』は20世紀の工業をまさしく象徴するようなものへとなっていった。・・・当然この生産システムは、現在の「マクドナルド化」の元になっており、・・・標準化された作業手順によって脱熟練化になり、労働者の均質化や大衆労働が可能となったのである。最後が消費の均質化である。これもフォーディズムのように、大量生産された製品を販売するための市場が成長することで、消費の方も均質化していったのだ。 またマクドナルド化は、簡単に言

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    REV 2007/03/19