2006年03月27日 ギャルゲー批評を考える 小説は本という形式上、単線的であることを逃れられない。必ず収束することが(未完であっても)約束されている。一方で、データという形式のギャルゲーは単線的な形を取る必要性がない。そこには複数の選択肢と結末が与えられている。もっとも、そこには「世界観(作品を制作する際の前提に置かれる最大設定)」という名の便利な主軸がある(そして残りの設定は世界観へと回収されていく)。プレイヤーはまさに作品に踏み込んだ瞬間にそこに統一された「世界観」を確認しようとする。作品はそれ自体として完結しており閉鎖的である。そこにはひとつの「作品」=「世界」しか存在しない。その「作品」=「世界」をコーティングするものとして一貫して存在すると我々が錯視する「世界観」ももちろん一つである(多くのギャルゲー批評においては通常、「世界観」が統一されていることが良しとされ、様々な矛盾や
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