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ブックマーク / www.h2.dion.ne.jp/~hkm_yawa (3)

  • 拝啓 手塚治虫様 第18回 ソラニンは小粒でもぴりりと毒素 鈍い意味と物語1

    拝啓 手塚治虫様第18回 ソラニンは小粒でもぴりりと毒素 背景に写真を加工した画像が使われる作品が増えた。そういうことを積極的に行っている漫画家もいる。最近に始まったことではないけれど、劇画に限らず実在の風景が画面に収まっているというのが、なんだかしっくりこない。だからといって、そこで描かれるキャラクターたちは浮いてはいない、作家の腕にもよるが、違和感なく現実っぽい景色の中に存在している。 写真あるいは写真をトレースした背景は確かに物語が今この世界で動いている感覚を味わえる。映画テレビドラマで言えば、見知ったロケ場所で撮影された映像を見たときの妙な興奮にも似ている。 現実を取り込んだ虚構が、そこにある。それは現実っぽいけど、やっぱり虚構である。現実が見たければロケ現場なり撮影場所なり、描かれた場所に実際に行ってみればいい。現実だから虚構の登場人物がそこにいなくてもがっかりなん

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    REV 2007/11/11
  • ひとりで勝手にマンガ夜話 :: 拝啓 手塚治虫様 第19-1回 「血まみれのヘンリエッタ」

    拝啓 手塚治虫様第19-1回 「GUNSLINGER GIRL」試論1 血まみれのヘンリエッタ 私的物語論のために これから言う「物語」は「ストーリー」とは違う意味で使うことになる。物語論(ナラトロジー)は学問としてまだまとまっていないらしくて、学者によって解釈に隔たりがあるんで、きっちりと定義し難いし、付け焼刃でどうこう言えるものではないので、私の解釈による「物語」の定義であることを前提にしたい。で、物語は大きく4つに分けることが出来る。 まず「ストーリー」。プロットとかエピードの塊である。起承転結やら序破急やらの話もこれになる。 次に「キャラクター」。登場人物と同義、混同して使われてても意味に差はない。萌えやらかっこいいなんかの話はここになる。 第三が「世界観」。前二者が働くための土俵であり、作品を支える骨格である。現代物の作品の多くがこれをあまり考えずに作られるの

  • 竹内オサム「マンガ表現学入門」を読んだ話

    「マンガ表現学入門」感想 筑摩書房 竹内オサム 1 私も手塚ファンの端くれではあるけれど表現者としての手塚賛美がちょっと気になった、竹内オサム「マンガ表現学入門」を読んだ。全体的にいまいち信用できない内容で、物足りないというか、素人が一生懸命資料集めて考えましたって感があって、それがプロの仕事ととして成り立っている・しかもマンガ評論家として長いこと活動している点に、少々びっくりした。いや、決してバカにしているつもりではない、幾多の資料を揃えて研究しているところなんか研究者らしい、でも不遜を承知で言おう、このの内容なら、ネット上のマンガ評論のほうがはるかに面白いし刺激的だ。 マンガ表現を戦前から現代までを俯瞰して表現がどのように獲得され変化し、今に至っているかを考える。それが考えられるなら立派だと思うけど、残念ながら、このはそれを果たしていない。端的に言うと、憶測な物言いが

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    REV 2005/07/29
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