なぜ、オタクでないことに=オタクであると胸を張れるほどの「教養」がないことに、後ろめたさを感じるのだろうか。オタクという名札は単純なアイデンティファイ*1として便利である。かつ、ふつう自己実現において避けがたい生々しい苦痛が伴わないため、ある種のひとたちはオタクを志向する。僕もそのひとりである。 趣味の多様化が著しいこんにち、オタクの定義はますますあいまいになっている。僕なりのとらえ方としては、「――ならなんでも」という「選択と集中」による絶妙な「広さ」と「狭さ」の両立こそがオタクの実現であると考えている。僕はこの「――ならなんでも」という指向性、言い換えれば「ジャンル差別」*2という感性が欠けていて、「狭さ」の伴わない「広さ」つまり「浅さ」に嗜好がとどまってしまう。 ところで、「――ならなんでも」というのは言葉の綾が強くて、「物語ならなんでも」「いいものならなんでも」と埋めると逆に「ジャ