タグ

文学に関するReicheのブックマーク (13)

  • 臨床ダイアリー13:『ライムギ畑でつかまえて』を読んで

    2016.08.07(日曜日)『ライムギ畑でつかまえて』を読んで 1.はじめに 来なら今回は、臨床ダイアリー12:『コミュニケーション障害について』の予定でしたが、9月に長崎で福岡大学病院時代の後輩たちと研究会を催すことになって、J・D・サリンジャーの“The Catcher in the Rye”を再読する必要に駆られ、棚から野崎孝訳が見つからなかったために村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を初めて読んでみました。すると、そのインパクトが大き過ぎて『コミュニケーション障害について』を後回しにして、急きょ臨床ダイアリー13を優先することになったのです。 私が精神科医になった1980年は境界例Borderlineという病名が臨床医の衆目を集めていました。その時に、先輩たちからしばしば境界例を知りたければ野崎訳「ライムギ畑でつかまえて』を読むように言われました。ところが、改めて読み

    臨床ダイアリー13:『ライムギ畑でつかまえて』を読んで
  • Chambre AA チェーホフ三部作(1) 『箱に入った男』

  • 金閣寺と人間失格: 忘却散人ブログ

    わすれもの、うせものがたえない毎日を送る忘却散人(飯倉洋一)のブログです。2008年3月スタート。日近世文学。 軽い読み物として、推敲もなしに書いていますので、学術論文などへの引用はお控えください(どうしてもという場合は、事前にコメント欄にでもご連絡下さい)。エッセイなどでの引用やSNSなどでのリンクはご自由にどうぞ。 少し前に同僚の出原隆俊さんに「「金閣寺」の構成意識」という論文をいただいた。『三島由紀夫研究』7(2009年2月)所収。この中で、『金閣寺』が『人間失格』を意識していることを述べられている。そしていろいろと類似点を挙げるのだが、並べられた類似点を見ても、一見「そうかなあ」と思わないでもない。しかし、『人間失格』と『金閣寺』にはどこかつながるものがあるというのは、よくわかる気がする。 多分、論者にも、そういう「感じ」が先にあったのではないか。そうすると挙げられた類似点も、三

  • 革命の狂気を生き延びる道を教えよ その4 - KAZUO NAKAJIMA 間奏

    大西巨人は、「俗情との結託」(一九五二年)で、今日出海の『三木清に於ける人間の研究』と野間宏『真空地帯』における性の描かれ方に、「俗情との結託」を見出した。 まして人間が、ある条件の下で性慾処理・青楼行きの問題に直面して、そこに深刻な社会的・道徳的――一夫一婦制の、純潔の、売淫の存在その他についての――問題を発見したり悩んだりすることは、今日出海らの目には野暮の骨頂、お話しにならぬ滑稽、非人間的な事柄と映じるのであろう。〔…〕それは、この作品が(現代まだ労農市民・国民大衆〔特にその遅れた層〕の中に広汎に存在する)封建的・後退的要素すなわち俗情と結託することによって書かれ、それと結託することによって読まれた、という事実を指示するとともに、現在また今日出海が帝国主義反動の狡猾極まるイデオローグとして俗情との結託・俗情の保守のために積極的に努力した、という事実を証拠立てる。〔…〕 しかしその曽田

    革命の狂気を生き延びる道を教えよ その4 - KAZUO NAKAJIMA 間奏
    Reiche
    Reiche 2021/12/21
    ❝(だから、大きすぎる享楽の不平等に対しては、その所有者はカリスマ(原父!)のごとき崇められる一方で、わずかな不平等に対してはきわめて嫉妬深い)。❞金銭問題でも100万円くらいなら騒がれるけど億単位だと…
  • 何もなさなくていい状態に戻り続ける:三島由紀夫「邯鄲」『近代能楽集』 - うろたどな

    奇妙な戯曲だ。幼児回帰幻想のようなものが主題化されるが、それは、幼児化する青年と、幼児化を誘うかつての乳母的存在との相互依存によって出現するものである。それでいて青年には女性嫌悪と女性蔑視が入り混じっている。女を嫌い、女を見下す、それはどこか、男中心主義的なナルシシズムの倒立像である。 青年と乳母の共同作業によって織り上げられていく幼児的幻想の行き着く先は、繭のような空間だ。外界から隔離された、やさしい夢幻の園であり、子ども部屋がその象徴である。 しかしながら、その不気味なユートピアに至るには、いくつかの幻想が上演され、否定されねばならない。 親が否定されなければならない。青年は夢のなかで、美女と子をなすが、その子は殺されねばならない。それは子にたいする嫉妬――それでは、殺されるべき父から逆照射されたエディプス・コンプレックスにすぎない、それでは母=への愛が中心に残り続ける――というより

    何もなさなくていい状態に戻り続ける:三島由紀夫「邯鄲」『近代能楽集』 - うろたどな
    Reiche
    Reiche 2020/09/21
    “『邯鄲』において父も母も不在であるというのは象徴的だ。青年の実父も実母も登場しない。”エロゲの主人公か
  • スタニスワフ・レム「ペテン師に囲まれた幻視者」(5) - 玄文社主人の書斎

    「ペテン師に囲まれた幻視者」のディックについての論点は多岐にわたっていて、他にも独自な指摘はたくさんあるのだが、レムの言いたいことをひと言でまとめている文章を挙げるとすれば、以下のような部分であろう。 「――つまり、ディックの世界において悪性腫瘍のように攻撃的になってゆくこの現象――は、もはや単に純然たる幻想とは思われないのである。だがそれは、ディックがなんらかの具体的な未来について予言しているということではない。彼の小説で描かれる崩壊してゆく世界は、いわば創世記をひっくり返したようなもので、そこでは調和が混沌へと逆もどりさせられる。これは予見された未来というよりはむしろ、未来の衝撃であり、単純な形ではないにせよ、虚構の現実の中に具体化されているのだ。つまりこれは、現代の人間に特有の恐怖や陶酔が客体に投影されたものなのである。」 つまり、世界の崩壊現象というものがディックにおいては、未来に

    スタニスワフ・レム「ペテン師に囲まれた幻視者」(5) - 玄文社主人の書斎
    Reiche
    Reiche 2020/03/20
    >われわれは『ユービック』の登場人物のように、半生命状態にあります。われわれは死んでも生きてもおらず、解凍される日を待ちながら、冷凍睡眠に入っています。
  • 『小林秀雄の発言には眉に唾をつけよ。』

  • サービス終了のお知らせ

    サービス終了のお知らせ いつもYahoo! JAPANのサービスをご利用いただき誠にありがとうございます。 お客様がアクセスされたサービスは日までにサービスを終了いたしました。 今後ともYahoo! JAPANのサービスをご愛顧くださいますよう、よろしくお願いいたします。

  • 大江健三郎と三島由紀夫の文体をめぐるメモ

    皆さん、芸術家なら自分の作品をエラボレートするのは当り前だろう、といわれるかもしれません。しかし、この国ではそうじゃないんです。エラボレートする作家は──文学でいうならば──じつにまれで、たとえば安部公房のように特別な人なんです。かれの小説の初出と、全集におさめてあるものを比較すればあきらかですが、安部さんはいったん発表したものも、なおみがきあげずにはいられない作家でした。 三島由紀夫の文体は見事だ、というのが定説ですが、あれはエラボレートという泥くさい人間的な努力の過程をつうじて、なしとげられた「美しい文章」ではないのです。三島さんは、いわばマニエリスム的な操作で作ったものをそこに書くだけです。書いたものが起き上がって自分に対立してくるのを、あらためて作りなおして、その過程で自分も変えられつつ、思ってもみなかった達成に行く、というのではありません。三島さんのレトリック、美文は、いわば死体

    Reiche
    Reiche 2018/08/11
    “三島が、或いは三島が選んだ「文体」が半ば意図的に「現実」との接触を避ける身振りを持っているという点である”
  • 『短く書きゃイイのか?』

    Reiche
    Reiche 2018/08/11
    “「陰陽礼賛」にしたところで、谷崎本人は、採光に溢れた洋風建築の家屋が好きで最後に住んだ伊豆山=熱海の家でも勘違いしていた建築家に設計図の変更を求めていたのである。”
  • さよなら、栗本薫 1 - うな風呂

    2009年5月26日夕刻、栗薫が亡くなったらしい。 27日11時半、寝ぼけ頭でそれを知った自分は「あ、そう」と思った。「ふーん、ついに死んだんだ」 別にショックではなかった。膵臓ガンだというのはずっと前からわかっていたし、早晩死ぬのは明白だった。膵臓ガンという病の重さから考えれば、ずいぶんと長生きした方だとすら思う。 だからまあ、死ぬのはいいんだ。死ぬのは当然で、そしてしょうがない。 それから「栗薫が死ぬってどういうことだろう」と思い「栗薫が死んだのに、おれはなにをやっているんだろう」と思った。 なにをやってるんだろうって、なにもやれることもやるべきことも、おれにはないだろう? とりあえず、作家・栗薫(評論家・中島梓)の主な経歴をまとめてみたいと思う。 1977年 中島梓名義で群像新人文学評論賞受賞 1978年 『ぼくらの時代』で江戸川乱歩賞受賞 1979年 ライフワークとなるファ

    Reiche
    Reiche 2018/08/03
    “本当にもう、栗本薫は、いやさ山田純代さんときたら、何ひとつ持っていなかった。 本当に、本当に、なにももたずなににも恵まれず” 東京の裕福な家に生まれている時点で…と僻みっぽい事を書いてみる
  • 『ヒストリエ』 岩明均

    フェロモンボディのボディソープを買いました。  スリミング・セルライト対策のソルト系のボディソープとしてクチコミでも割と評価... 「美白フリークの愛用する6つの日焼け止め」で触れたイプサのプロテクター・デイシェルター・ブライトビジョンをまた買いました。 ...

    Reiche
    Reiche 2018/07/25
    町田康『告白』“わたしたちの人生は常に「イヤイヤ連載が続いているドラゴンボール」なのです。”
  • 三島由紀夫と教養小説 ――『鏡子の家』vs『魔の山』――

    279 三島由紀夫と教養小説 ――『鏡子の家』vs『魔の山』―― 髙 山   秀 三 要 旨 三島由紀夫はゲーテやトーマス・マンに傾倒していたが,このことは必然的に彼らがその代 表者だったドイツ教養小説の伝統に三島が何らかのかたちで影響を受けていたことを意味す る。教養小説(Bildungsroman)はゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』やマン の『魔の山』のように,素朴な青年を主人公として,その内面的成長を描く文学ジャンルであ る。教養小説の主人公は人生の意味を探究し,教養 Bildung を身につけようという人文主義的 な理想を抱いている。教養小説は,市民階級興隆期の産物であって,その人生肯定的性格も当 時の市民層のもつ楽観性から生じている。 三島文学にシニシズムや虚無感や破壊衝動が濃厚であることを考えれば,三島由紀夫と,根 的に理想主義と人生肯定を特質とする教養小説

    Reiche
    Reiche 2017/10/23
    “夏雄の危機は,独創性にあふれた絵を描いていた子どもが,通常,学童期を脱すると,何の面白みもない絵しか描かなくなり,絵を描くこと自体にも興味を失っていく過程と相似形のものである。”
  • 1